帰る場所を探して
執筆:こえい(アリューシャ)
挿絵:卍(ワハル)/623(サラーブ)
 色が広がる。鮮やかな赤だ。夕暮れの空より深く赤々しい。眼前を覆い隠し、一色に染める。そうして額に走る衝動。アリューシャは僅かに後ろへ仰け反り、目を瞬かせた。
「痛いわ」
 緩やかな言い方は、傍から聞けば少しも痛そうではない。事実アリューシャ自身も痛みを感じてはいるものの、差し迫った危機感はなかった。それよりも状況が呑み込めていない。どうやら赤い何かが、アリューシャの額にぶつかったらしい。
 不意に頭上で羽音が響いた。その羽音はアリューシャへ近付き、そのまま重みとなって肩に留まる。右を向いたアリューシャはその羽音の主と顔を付き合わせた。愛嬌のある顔が右へ左へと動き、白と黒の嘴が頬に触れる。
「先ほどぶつかったのはお前かしら。怪我はしていない」
 アリューシャの肩に留まったのは、赤を基調とした大きな鳥だった。翼先は明るい緑から水色へと色を変えている。アリューシャが尋ねると返事をするかのように高く鳴いた。どうやら怪我はなさそうである。
「お前はどこから来たの。私と同じ迷子なの」
「マイゴ!マイゴ!」
賑やかな返答は、アリューシャにも分かる言葉だった。鳥の言葉が分かることにアリューシャは目を丸くし、小さく微笑む。
「そう、ではお前は私と同じなのね」
 鳥という生き物をこれほど間近に見たのは初めての経験だ。存外、自分に近い存在なのだと知る。

 共に旅をしていた隊商が街に着き、一時解散となった。街中を歩いているうちにアリューシャは元いた場所が分からなくなってしまったのだ。解散場所付近に隊商宿があったことは覚えている。だが、残念ながらそれ以上の記憶は曖昧だ。
 知らない街、知らない砂、知らない風向き。時折砂の波がアリューシャの踝に寄っては、どこかへ去っていく。流動し、止まることはない。
 その中で得た小さな同士だ。
「お前の帰る場所を探さなければいけないわ」
「カエルバショ?」
「そう」
 話ながら石の塀が続く街外れを一人と一匹で行く。やがて、井戸のある開けた場所に出た。井戸は枯れて久しいようで、水が呼吸をしていない。周りを囲む石垣は崩れかけており、少しずつ砂へ姿を変えようとしている。枯れ井戸に魔物が住み着かぬようにするため描かれた文様も、半分以上が消えかけていた。ここは魔物すら忘れて久しい場所なのだろうか。
 突然、井戸の上をばさりと大きな鳥が羽ばたいた。黒い影がアリューシャと赤い鳥を覆う。見上げれば、紫の頭が揺れた。そして、翼に筆を持ち、空中へ模様を描く。その模様はあたかも意思があるかのように、黒い鳥の周りを漂った。
「綺麗ね」
 水だ。アリューシャは漠然と思う。乾いた風が水を孕んで、場に流れを生み出していた。
 肩の赤い鳥が同意するかのように、キレイ、キレイと声をあげる。
「あなたはこの子の仲間かしら」
 アリューシャの背よりも高いところにある顔が、ん、という表情をして下を向いた。眼差しは赤い。光の加減で紫にも赤紫にも映る。顔に影が差しても、その眼差しだけはアリューシャの元へ届いた。瞬きを繰り返しても印象に残る、赤味の虹彩。

「この子ってのは、その鳥のことかァ」
「そう。あなたも飛んでいるから」
 鳥ではないの、そう付け足すと相手はからからと乾いた空気を震わせながら、笑い声を落とした。
「確かにこの空は、鳥とジンで分け合ってるかもしれねぇが」
 ふわりと羽に風を含ませて、黒い鳥はアリューシャより頭一つ上の所へ降りてくる。同時に唇の端をにぃとあげた。頭に飾られた葦の葉が合わせるようにしなる。
「鳥と俺よりも、俺とお前さんの方がいくらか近い存在だぜ」
「あなたと私が」
「そうさ」
 近いと言われ、アリューシャは黒い鳥の姿をまじまじと眺める。泉に映る自分の姿を思い浮かべ、重ね、吟味した。残念ながらアリューシャの足は地から遠く離れたことはない。出来るのかもしれないが、方法を探るよりも間に歩いた方が早かった。
 それでも、空を自由に行き交う生き物には少しだけ憧れる。無いものねだりをするように。
「私にはあなたと鳥のが似ているように思うわ」
 アリューシャの出した結論を肯定も否定もせず、大きな鳥がまた声をあげて笑う。じゃぁ俺は鳥の同類ってことにしておくかァと笑い声混じりの言葉が返ってきた。
「鳥でないなら、あなたは何」
「何、ねぇ。哲学的なこと聞くじゃねぇか」
 黒い翼が広がっていく。闇ほどは暗くない。アリューシャの目の前へ、紡がれるように模様が描かれた。
「名なら、ワハルだ」
「ワハル」
 一文字一文字をはっきりと発音する。名を覚えるのは、難しい行為だ。物にも生き物にもたくさんの名が溢れている。名に付随する意味は越流し、アリューシャは度々その流れに翻弄された。
 ワハルは、意に介さず流れていけるのだろうか。空を泳ぐように容易く。
「私はアリューシャよ」
「マル!マル!」
 アリューシャの名乗りへ重ねるように、赤い鳥が鳴いた。どうやらマルというのがこの鳥の名らしい。柔らかそうな名だ。形で言えば球形を思い出す。
「アリューシャにマルか。それで、何をしてるんだ。こんな所で」
「この子の帰る場所を知らないかしら。あなたも空を飛ぶのなら、帰る場所を探してほしいの」
 鳥よりも何倍を大きな存在なら、空のこともよく知っているに違いない。アリューシャは期待を込めてワハルを見つめた。ワハルは肩のマルをまじまじと眺め、考え込むように緑の顎鬚を撫でる。
「こいつの帰る場所は空じゃねぇな。誰かに飼われてる鳥だ」
 飼われているということは、もっと大きな鳥に保護されているということなのだろうか。その鳥もマルを探しているのかもしれない。空を見上げたが、残念ながらそれらしき影はなかった。
「サラーブ!」
「さらぶ?」
「サラーブ!サラーブ!」
 唐突にマルは騒ぎ出し、サラーブと連呼しながらアリューシャの頭上をぐるりと回る。必死で何かを訴えているようだ。だが、アリューシャの語彙に思い当たるものがない。
「隊商の鳥獣使いにそういう名の奴がいるぜ。もしかしたらそいつの鳥かもしれねぇな」
「サラーブという鳥を探せばいいのね」
「いやサラーブは鳥じゃねぇな。ちょっと待ってな」
 ワハルは空中へ戻ると、先ほどと同じような模様を幾多も描いた。模様は鳥のように空へ散っていく。方々へ散った模様たちは何度か空を巡ると、ワハルの元に戻って来た。

「こっちの方に変わった鳥がいたネ」
 土壁の角からにゅっと黄色い頭が現れる。靴音なく現れたその頭に、アリューシャは目を瞬かせた。柔らかな黄がアリューシャの肩にいるマルを見つけ、ぱっと表情を変える。嬉しそうに薄青の両翼を広げ、走り寄って来た。
「マル!」
「サラーブ!サラーブ!」
 この存在が噂のサラーブなのだろうか。だとしたらアリューシャの想像通り、とても大きな鳥だ。もしかしたらワハルより大きいかもしれない。そして、マルと同じように鮮やかだ。周りの空気に様々な色をつけ、残していく。
 マルはばさばさばさと懸命に羽ばたいて、サラーブの元へ戻っていった。肩にマルを乗せたサラーブは、どこからともなく餌を取り出す。マルは慣れたようにその餌を啄ばんだ。
「良かったネ、心配したヨ~」
「帰る場所が見つかったようだなぁ」
 枯れ井戸の淵にワハルが胡坐をかく。筆を持っている方の手で頬杖をついた。
「良かったわ、親鳥の元へ戻れて。有難う」
「礼にはおよばねぇってことよ。それと、サラーブは鳥じゃねぇぜ」
 そういえばそんなことを聞いたような気もする。けれども、アリューシャにはワハルもサラーブも鳥を思わせた。鳥のように色彩豊かな存在だ。

「本当に鳥ではないの」
 アリューシャが右に首を傾げながらワハルに聞き返すと、話を聞いていたサラーブが不満げに翼先を揺らす。重なった薄青と青がマルの翼に似ていた。
「そんなことないネ、トリみたいなものダヨ~」
 ワハルのことを疑うわけではないが、サラーブ自身がそう言うなら、やはり鳥なのだろうか。今度は左に首を傾げた。
「鳥なのかしら」
 どちらが正しいのかよく分からない。
「ま、どっちだろうが、たいした問題じゃねぇな」
「そうダヨ、たいした問題じゃないヨー」
「鳥であってもなくても、鳥に似ていることには変わりないわ」
 同意をするように三人はうんうんと大きく頷いて、マルを翼の袖へとしまった。青い袖口の先には深淵がある。そこへマルは吸い込まれるように消え、姿を消した。隣に座っているワハルが驚いたように片眉をあげ、すぐにがははと笑う。
「流石奇術師はちげぇな」
「奇術師じゃないネ、鳥獣使いダヨー」
「どんな仕掛けの奇術なんだ」
「鳥獣使いダヨー」
「魔法士にもなれるんじゃねぇか」
「ちょ、鳥獣使いダヨ~!」
 二人は決まり文句めいたやり取りを何度か繰り返す。終わると共にサラーブは二人のやり取りを見守っていたアリューシャへ向けて、にんと笑った。笑顔と同時に袖から一斉に鳥が羽ばたく。幾重の違う音階の囀りと羽音が鼓膜を震わせた。砂色の風景が途端に色の洪水で賑やかになる。何者にも束縛されることなどないと言いたげに、鳥たちはアリューシャの周りを自由に飛びまわった。

 鳥たちの中で一層目立つ赤い羽ばたきはマルである。マルは降りてくるとアリューシャの腕に留まり、二、三度手の甲を柔らかく噛んだ。アリューシャと一声鳴いて、仲間の元へ戻っていく。
 ぴぃぃとサラーブが高く口笛を吹いた。鳥たちは現れた時と同じ速さで、サラーブの袖口へ消えていく。最後の一羽が潜り込むと、後には静けさが残った。先ほどの騒がしさが全てサラーブの内側に収まっている。不思議な光景だ。
「その衣は魔道具か何かかァ」
「ん~ザンネン、ボクは普通の人間ネ」
 だからフツウの鳥獣使いヨ、とサラーブが胸を張る。それで普通と言うなら、普通じゃねぇ鳥獣使いはどんな鳥獣使いか見てみてぇもんだとワハルが返した。そのまま赤い視線を滑らせ、アリューシャで止める。
「で。赤ぇ鳥は帰る場所を見つけたようだが、お前さんはどうするんだ」
「私は帰れないわ。帰る場所が分からないもの」
 帰る場所は持っていた。それは隊商以外の場所である。所属する隊商そのものにアリューシャを待っている者はいないかった。自分自身で帰る場所を見つけなければ帰ることができない。ひどく困っているわけではなかった。ただ少し迷子仲間のいない肩が軽いだけだ。
「不安そうな顔しなくても大丈夫ネ、ボクも一緒に探すヨ!」
 知らない間に不安そうな顔をしていたらしい。サラーブが明るく肩を叩いた。ぽっと灯りが点ったような感覚がアリューシャの心を占める。
「何か覚えていることはねぇのか」
「あまりないわ。隊商宿を探しているのだけれど」
「マリーヘの隊商か?」
「青い女の人ダヨ~」
 まりへという名に聞き覚えがなかった。アリューシャが考え込むのを見て、サラーブが付け加える。
 隊商には何人か青い女の人がいた。そのうちの誰かがマリーヘと呼ばれていただろうか。記憶の中の青さを追っても、思い当たる人物はいなかった。アリューシャは分からないと小さく首を振る。
「今、この街にいる大型の隊商は俺たちぐらいのもんだが」
「ならボクが宿まで案内するヨ。違ったら別のとこをあたればイイ」
「おう、そうしな」
 アリューシャはサラーブの青い袖に掴まれ、引かれた。そのまま後ろを振り返ったサラーブがワハルへ大きく翼を振る。アリューシャもそれを真似て手を振った。ワハルがそれに答えて片手をあげる。

 それからぐるっと回り、気付けばワハルのいる枯れ井戸のところへ辿り着いた。サラーブがアレと首を傾げる。隊商宿には着いていないようだ。
 井戸に腰かけていたワハルがくくと声を漏らす。
「ここは隊商宿じゃねぇなぁ」
「こっちだと思ったノニ~」
「ま、これも何かの縁って奴だ。最後まで付き合うぜ」
 ふわりと浮いたワハルがサラーブとアリューシャに並んだ。サラーブが右の道を差すと、ワハルが左を筆で示す。二人は顔を見合わせてやんのやんのと言葉を交わした。
 アリューシャの砂色の世界が色付いていく。なんだか嬉しくなって、ふふと笑った。