雨の日


執筆:ヤズィード(菅李人)
挿絵:ミロ(mio)・スィニエーリ(秋野 綾)・トアーラ(蒼衣鳩)




 ――夜明けを待つ沙漠の大気はいま、常に無い力強い水の気配とそしてあえかな歓喜のさざめきに満ち満ちていた。
 年経たジンが独り冷たく清い暁暗にふわと浮かび、同胞の息吹きに心地良く身を浸している。
 彼女はしかし、不意に静謐を乱す粗暴なざわめきがこの場所へと近づきつつあるのを悟り、赤く縁取った美しい眦を吊り上げた。

 ――一瞬ののち、隊商に迫る危機を知らせる見回りの護衛の声が、眠りの中にあった天幕の間を響き渡る。


 「くそ、まだるっこしいな…っと!」
 濡れて重い砂に足を取られ、崩れた体勢を突いて踏み込んでこようとした襲撃者の得物をとっさに蹴り返しながらミロは嘆いた。夜半に突如として降った雨の為にこの一帯の砂は水を含み、固いかと思えば不意に柔らかく沈んで戦うものの動きを鈍くしている。
(恵みの雨とはいえ、こればっかりゃ参るな)
この程度で遅れを取るような相手では無いが、しかし面倒くさいのには変わりない。
(しっかし、妙な連中だなあ)
ならず者の類には違いないのだが。
 武器を弾かれた相手が怯んだその隙に素早く跳ね上がって槍を握りなおし、そのまま思い切りぶんと振りぬく。長身と長い得物の間合いの広さを存分に見せ付けた一閃に距離を置いてこちらを伺う敵方の人数は――4・5人、といったところだろうか。
(とりあえず)
 ――この程度の相手なら一人で十分だな。
 ミロが内心そう結論付けたと同時に、斜め後方でも打ち合いの音がした。何合か合わせた後、双方が距離を取る気配がし、トン、と腰の辺りに軽い身体がぶつかる。
 ――ふぅん。大の男相手に大したもんだ。
 この場にはふさわしくないだろう呑気な思考を巡らせた後、ミロは背後で小さく息を整えている、今宵の見回りの相方の名を呼んだ。
「トアーラ! ここは俺だけでいいや」

ふっと息を詰めた音がして、小さな身体に改めて緊張が走る。
「非戦闘員の方、頼む!」
「……! はい!」
 真面目だなあ、とか、しっかりしてんなあ、とか――固い答えに微笑ましいものすら感じて、ミロは思わず口角を上げた。
 言葉と同時に放たれた矢のように駆け出していく少女の邪魔をさせぬよう、黒光りする長槍を無造作に一振りして立ちはだかり、――そして男は不適に笑う。
「さあ遊んでやるぜ、――来いよ!」


 そして――宿営地の外れ。
 少女に礼を述べながら、やあ助かった、と息を吐いた男は濡れた砂に塗れた手でぐいと額を拭った。
「あの……砂、が」
 当然のこと額に付着した砂を見て控えめに指摘してみるが、ああ、と言いながらもさして気にはしていないらしい。徐々に明るむ周囲を見回せば、今しがた逃げていった襲撃者の落とした武器のほか、幾つもの容器や袋が地面に点々と並んでいた。口を開いた皮袋に溜まった雨水が、水面に鈍く空を写している。隊商の召喚士の使うルフの中には水の浄化作用をもつものも居るため、貴重な雨を皮袋や容器に溜めて飲み水にしようという心積もりのようだ。せっせと袋を回収しては口を縛る男の帯にどこかで見慣れたものが挟んであるのを認め、トアーラはその違和感に首をかしげた。
「あ、あの……」
「ヤズィードだ。あんたは」
「あ、トアーラ、です」
 トアーラか、と頷いた男に言葉を切られて口ごもり、少女は再度の問いを暫し躊躇う。だが矢張りもう一度と口を開きかけた時、彼女の五感が――それを捉えた。
「下がって!」
一声叫んで男を背に護り、瞬時に棍を構えて“そちら”へ向き直る。耳元でころり、耳飾りが揺れた。風を切る音と共に飛んできたものをトアーラは反射的に叩き落とす。
 ――飛礫!
 どうやら相手は地のジンらしい。背後の男を庇いつつ必死に弾き返すが、息もつかせず途切れなく石は四方から襲う。
 薄明の向うの敵影に目を凝らしてじりじりと反撃の機会をうかがうものの、中々思うようにはならずトアーラは無意識に唇をかみ締めた。少しずつ削られる体力に生じた僅かな焦りが一瞬、判断を浮つかせる。
 ――しまった!
 次々と飛んでくる飛礫のその一つに対処が遅れ、避けきれぬと覚悟を決めて身構えたその刹那――がきん、という打撃音と共に敵が悲鳴を上げて仰け反った。すかさず距離を詰めて一撃を打ち込み、続けざまに二打を加えれば、相手は舌打ちを残して退いていく。それを見届けて振り返ると、あんたすごいなあ、とヤズィードが非道く感心したように言った。その手に握られているのは、
「のし棒……」
ようは料理人が粉を練った生地を叩いたり伸ばしたりする際用いる、アレである。ああ襲撃だというから護身用にと借りてきたんだが、と言いながらヤズィードはひょいとそれを掲げて見せた。――その中ほどが思い切り傷ついて凹んでいる。

 一瞬無言になった後、困惑した顔で立っている少女に向って男は首を傾げた。
「……やっぱり怒られるかな」
「た……多分……」

 ――隊商の護衛たちが襲撃者を撃退するには、それからさほど時間を要さなかった。


 「結局何が目的だったんだろうな――」
 欠伸をしながらのミロの疑問は、護衛の多くが感じているもののようだった。己が意を代弁するような台詞に揃って首を捻る護衛たちは、意外にあっさりと撤退していった襲撃者に対し肩透かしを喰らった気分で居るらしい。
「だいたいこの規模の隊商を襲うには人数も少なかったし、やる気無さそうな感じだったよなあ」
 何が目的だったのかなあ――と繰り返して、ふと後ろを振り返った彼の目に、宿営地の脇に横たわるワディ(涸れ川)が映った。幸い洪水までは至らなかったものの一時涸れ川の名を返上したワディは、今も生きたものの吐く呼気のように水蒸気を立てている。
 ――にしても。ぬかるんだところでももっと普通に戦えるようにしとかなくっちゃなあ。
 ふと靄の立つ其処へ踏み入ろうとしたミロは、突然出現した氷の柱に足を貫かれそうになって咄嗟に飛びのいた。
「何をする、この無作法もの」
「な、何すんだはあんただアブねえな!」
 飛びのいた拍子に盛大に尻餅をつきながら叫ぶミロの元へ慌ててトアーラが駆け寄る。トアーラと同行していたヤズィードが見上げれば、氷のように冷え冷えとした青銀の眼でミロを睥睨する美しいジンが中空に浮かんでいる。ジン――スィニエーリはミロの抗議のわめきに一切耳をかさず、重ねてきっぱりと言い捨てた。
「喧しい、無礼者」
「俺がー!?」
 問答無用とばかり彼女の周囲に幾つもの凍てつく氷塊が現れ、白く細い手に導かれるままミロの周囲に突き刺さる。思わず一歩ワディの方へ避けたヤズィードは、ジンに一喝されて慌てて逆側へと飛び退った。
「そこな見習いも軽々しく踏み入るな!」





 ――どういうことだ、と問うヤズィードの疑問にスィニエーリは答えず、明るんだ東の空を一瞥して目を細めた。
「いま少しじゃ、じきに陽が昇る」
 その言葉の終るか終らないかのうちに砂丘の稜線は光り輝き、太陽が遂に姿を見せた。空が瞬く間に光に染められてゆく、その様に彼方此方から賛嘆の声が上がる。
 ――見やれ。
 暫し夜明けの様に見入っていた隊商の面々はスィニエーリの声に振り向き――眼前の光景に一様に眼を見開いた。


 「な、なに……?」
 やっとその一言を搾り出し、そしてトアーラは琥珀の瞳を瞠って言葉を失う。
 ――朝日に照らされ白く靄の立つワディから、キラキラと透き通った、羽根を持った小さな生き物が沸き立つように現れたのだ。その数数百、いやもっとだろうか。やっと訪れた朝の中で、無数の光の蝶が喜びに乱舞してでもいるようだ。
 眼を奪われる人々の耳に、再びスィニエーリの声が響いた。
「ついいま、孵化したばかりのルフじゃ」
 涸れ川の砂に混じり卵の形で幾年もの時を過し、十分な水を得た時初めて眠りから醒め太陽の光に導かれて孵化する、そういう種の水のルフなのだと――そう説明する彼女の、冷たさすら感じさせる程に整った面立ちは今、まるで自らの子を見るように微か優しい表情を浮かべている。
「羽根が濡れて重いゆえ、日が昇って暫くは高くは飛べぬ。それを捕らえようとて、やって来たのであろ」
 野蛮な者どもの間では闇で観賞用として高値で売り買いされると聞いた、と言葉を継ぎながら、ゆるとさし伸ばしたジンの袖にふわりとルフがとまりまた飛び立った。
 ――なるほど。
「あいつらの目的は隊商じゃなかったわけだ」
 ならあの手ごたえの無さも道理だな、そう納得した声で呟き、ミロは縺れるように飛び回るそれを眺めた。スィニエーリの言の通り、太陽が段々と高度を増すにつれてルフたちも徐々に高くへと舞い上がって行く。それを目で追う仲間たちの間から、不意に一際大きい歓声が沸いた。
「虹だ、――」
 夜の蒼から美しいグラデーションを描いて、青へ白へ赤へと色を変える明けの空に高く架かる――虹の大橋。きめ細かな水の鱗粉にけぶる透明な羽根が緩やかにその空へ昇りまた降りて、ゆるゆるとした上昇を続ける。

「きれい……」
思わず綻んだ唇から零れたトアーラの感嘆に、
「あの虹から降ってくるみたいだな」
虹を指差したミロの台詞。
「虹の雨か」
ヤズィードが頷き、
「粗野な者の表現にしては悪くないな」
スィニエーリがにい、と笑う。


 ――後は溜息のほかに声も無く。

 やがて虹が消え小さなルフ達が空に溶けるように高く高く飛び去るまで――隊商の人々はその場に佇み、明るく静かなその雨を見詰め続けていた。





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