恵みの痕


執筆:バラカート(櫟 戦歌)
挿絵:ジョフロア(汐越)・ニルヴァーニア(雨水)



湿った空気が流れてきた。主人が扉を開けたのだ。
その扉は店の奥へと続いていたが、先に部屋らしい部屋はない。ここまでが自分の場所だと誇示するように左右に壁を建て、その上に木の板を張り合わせた屋根を乗せた粗末なものだ。

一つ、小さく水が跳ねる。
裏道に開かれたその部屋には小さな水溜りが出来ていた。先の道にもそれは続き、行き交う人々は女神への感謝を口にする。
枯れたこの地に恵みの雨をもたらしてくれた貴女に感謝をと。
この粗悪な屋根もその雫を受け心地よい音を鳴らしていたのだろう。しかし恵みを受けきれず、時折思い出したようにその名残をこうして地面に落としている。

主人が扉を潜り、その戸を閉めるとまたくぐもった空気が戻ってきた。先程の部屋とは違い四方を壁で囲まれたその空間は逆に息苦しささえ感じられる。その部屋には三人、思い思いの場所に腰掛けていた。それ以外には棚に所狭しと並べられた本、本、本。他に目に映るものは何一つとして存在しない。
三人は其々主人が戻るのを待っていたのだろう、扉が開く音を合図にほぼ同時に顔を上げた。主人は待たせたというよう手を振ると、持ち込んだ荷を三人の中央に置きその紐を解く。
「これで全部になるかしら」
それはまたしても本の山であった。但し棚に並べられた書物とは違い、どことなく萎びた印象を受ける。この荷以外にも周りには同じような書物が山となって置かれていた。
「さっきも言った通り、昨日の雨で本が少しやられちゃったの。本当は売りたくないんだけど、量が多すぎるから赤字になってしまうでしょう?マシに出来るものはマシにしてもらいたいの」

主人は書籍を扱う商人であった。
隣町から商品を運ぶ際に雨にあい、その結果がこの様だと言うのだ。
「………運んでるときに対策を取っておくべきじゃなかったのか?」
「真っ当な意見だけど、私に言われても仕方のないことね」
不機嫌を隠そうともしないバラカートの指摘を主人は笑って流した。運び屋は運ぶだけの役割なのだ、中身の確認などする必要はない。
男もそれを理解しているのだろう、それ以上言及しようとはしなかった。
「私は夕方まで商談に出かけるから、その間出来る範囲で構わないわ。此処にあるものは自由に使って頂戴、お願いね」
余程主人は急いでいたのか捲し立てるように言い切ると急ぎ足で部屋を出て行った。後には三人と本の山が残された。


「………捕まりましたね」
ジョフロアが手に取った本は外装が完全にふやけ、ページ同士が完全張り付いてしまっている箇所まである。勿論字が読めるはずもなく、彼はそれを隅に寄せた。
「本を見に来たはずなんだがな…」
「ですが……お礼に、好きな本を一冊…譲って下さるそうですから…」
どこかまだ遠慮している風のニルヴァーニアに対して、それがなければ引き受けないとバラカートは言葉を漏らす。
元々三人は客としてこの店に訪れたのだ。その筈が主人の口に丸め込まれ今やこうして本の修繕をさせられている。溜息が出るのも仕方がないというものだ。
「引き受けたのなら済ましてしまいましょう、あまり時間も置けません」
「そうだな…さっさとやっちまうか……あージョフィーだっけか」
「ジョフロアです」
つ、とジョフロアは眉間に皺を寄せる。愛称で呼ばれることを快く思っていないのだ。
それを知らないのか、それとも知っていてあえてそうするのか、バラカートは心に留めた様子を見せない。何故なら彼は一つ本を手に取り、その方を見るばかりでジョフロアが眉を寄せる様子を見ようともしないのだから。
「どっちでもいいだろ、一先ずまともなのと分けるぞ…それとニルヴァーニア」
「は、はいっ」
「ボロ紙がないか探してきてくれ、多分あるだろ」
此方に声がかかることを考えていなかったのか、ニルヴァーニアは初め戸惑いを見せた。だがすぐにバラカートの言おうとしていることを理解したのか、彼女は小さな書斎机―恐らくここで事務作業や会計をしているのだろう―を探し始めた。
頻繁に使用していたのだろう、それはすぐに見つかった。
「どうしますか?」
「取り合えず、湿ってるページにこいつを挟んでいくしかないな…。後は重しを乗せて、その先は店主任せだ」
本の湿気を取る際に最も重要なのは焦らないことだ。重しを乗せ、すぐに退かしてしまっては意味がない。挟んでいるボロ紙も数日おきに乾いたものと取り替える必要があるだろう。最初の作業後は主人に任せるしかない。
「でしたら…乾いて、しまわないうちに…始めてしまいましょう」
「そうですね。私とバラカートさんで仕分けと積み上げをします、ニルヴァーニアさんはボロ紙をお願い出来ますか」
「半日は潰れる覚悟で行くか…」
バラカートは気付かれぬよう、静かに息を吐いた。

幸いにも荷の外側の本が水を吸収してくれたお陰か、内側の本の被害は少ないようだった。
本を調べ、読めないものは扉の近くに重ね置く。読めるものはボロ紙を挟みそれもやはり重ね置く。単調な作業ではあるが、そこは学者と医者という職業の三人である。「単調」というものに飽きを感じることはない。
そして飽きを感じない分だけ、作業に集中し始めるのも早かった。
「………これが最後の荷物か?」
気付けば粗方のものは片付けてしまっていた。残っているのも纏め損なったような小さな荷だけだ。
積み上げた本の上に重しを乗せると微かに床が沈み込んだ。あとはボロ紙が中の水分を吸い取ってくれるのを待つだけだ。
「一通りの本は見られたようですね。…それにしても…文句を言っていたわりには仕事がお早いですね」
「受けたからには最後までやる。…受けた過程は気にくわねぇが」
屁理屈とも取られかねない言葉を返しながらバラカートはその荷を紐解いた。
小さい荷である為、他のものより雨に濡れているものが多いようだ。張り付いたページを無理矢理剥がすとインクの匂いが漏れた。
元はなんの本だったのだろう。インクが滲んだそのページには挿絵のようなものも描かれていたが、もはやなんの絵なのか判別が付かない。
勿体ない。この作業中何度も思ったことを繰り返し、新しい本に手を伸ばす。
「………ん?」
それにはほんの僅かな、だが確かな違和感。
「どうか…されましたか?」
その様子に気付いたニルヴァーニアが歩みを寄せる。ジョフロアもまた作業の手を止めた。
男は何も言わずに此方を覗き込む彼女にそれを放った。
彼女は僅かに慌てたが、本を受け取ると即座にその理由に気付いたようだ。

「……………魔道具、でしょうか」
恐らくそれはジーニーでなければ気付かない程に微弱な力だった。それでも手にすれば気付く、三人はジーニーなのだから。
今まで見てきた中で最も豪華な装飾が施されたそれは、他の本に護られたのかそれとも本に込められた魔力によるものなのか、雨に濡れた様子は見当たらない。
どうしたものかと手の内で遊ばせていると、ジョフロアがそれを持ち上げた。
「あの方は人間かと思いましたが…そのまま売るつもりだったのでしょうか?」
「混ざっただけじゃないか。見た目は唯の本だしな、荷を纏めてるときに他の奴のが混じったんだろ」
商人が中身の確認をせずに商品を仕入れることは少ない。書籍を扱う商人ならば仕入れた商品の内容を理解しているはずだ。
もし内容を知らずとも、魔道具を仕入れたならばそのことだけは理解していなければならないだろう。
「…まぁ、別にしておいて店主に報告しておけばそっちでなんとかするだろ」
「……………あの、その…」

「…中は……何が書いて、あるんでしょうか…」
その言葉に続く者は居なかった。
表題がない為内容を知らないことは勿論だが、それ以前にその言葉は他の二人の心中でもあったからだ。
沈黙は暫く続き、質問を投げたニルヴァーニアが悪いことを聞いたのかと顔色を曇らせ始めた。
そんな状況に痺れを切らしたのか、つかつかとバラカートは脚を動かした。
ジョフロアが眺めていたその本を取り上げ、留め具を外し、そして。

開いた。

「バラカートさん!?」
「………!」
その行動に驚くも、何が起こるのかとニルヴァーニアは強く眼を閉じジョフロアは彼女を庇うように立った。魔道具によってはジーニーでさえ呪われる物もあるのだ、これがそのような類ではないと言い切ることは出来ない。
ところが、いくら経っても振動も閃光もその場に居る者に与えはしなかった。むしろ静まり返っている。
やがて人のものではない、だがとても綺麗な声が聞こえてきた。とてもか細く、耳を澄まさなければ聞き取れない声ではあったが確かな旋律を紡いでいる。
それは確かに唄であった。

「………詩集だな」
男の声を合図に張り詰めかけていた空気が和らいだ。
歌声はどうやらその詩集から漏れてきているようだ。よく見るとページから挿絵なのだろうか、立体的な絵が浮かび上がっている。
ページを捲ると唄は止まり、別の唄がまた紡がれる。挿絵もページ毎に違うものが浮かび上がるようだ。唄われているものをイメージして描かれているのだろう。
「唄が流れるのはそれ自体を込めてるだけみてぇだし、開くだけなら問題ないだろ。魔道具としての使い道はさっぱりだがな」
「何事もなかったからいいものの…せめて開くなら開くと一言言って頂けませんか…」
思わず溜息を漏らす。もし誤って魔道具としての力が出てしまったらどうなっていたのかと、ジョフロアは言うのだ。
だが当の本人はそれを意に介してはいない。
「持ったときにそう力はねぇって分かったし、暴発もするなら運んでるときにとっくにしてるだろ」
「確証があったのですか?」
「いや、勘だ」
「………」

あまりにも当たり前のように言うので、ジョフロアは言葉が止まってしまう。どうやらこの男は、見た目にそぐわず行動が大胆のようだ。
物言いたげなそのジョフロアの視線を流し、バラカートは本を閉じた。そのとき、もう一方からも視線があることに気付いた。

「…興味あるのか?」
「………え」
気付かれたことに驚いたのか。そもそも見入っていたことに気付いていなかったのかも知れない、ニルヴァーニアの反応はそう思わせた。
本人はどう返そうか、素直な気持ちを口にしていいのか悩んでいるようだ。だがその様子が先程の答えを伝えている。
口答されないことにやれ、とバラカートは呆れた様子を見せた。不快にさせたかとニルヴァーニアは怯えるが、次の瞬間に目の前に本を差し出された。
「俺は興味ない、ジョフィーは」
「ですから、ジョフロアです。…私は興味がないわけではありませんが、ニルヴァーニアさんは確か呪い歌を研究されているのでしたね。ニルヴァーニアさんが調べて分かることもあるのではないでしょうか」

それでも彼女は踏ん切りがつかず、本に手を伸ばすもまた戻してしまう。
「店主の方…譲って下さるでしょうか?これは、その…高価な、ものかと…」
「問題ねぇんじゃないか?」
それもまた、あっさりと言ってのけた。
「今回の礼として種類を選ばないで本を一冊、さっきも言ったが恐らく店主はこいつのことを知らない。なら代価にこいつを指定すれば店主も文句は言わねぇだろ」
つまりは魔道具ということを知らせず、一冊の本として譲り受けようと言うのだ。
騙すようだとジョフロアは言うが、言わないだけだと男は笑って見せた。多少横暴なやり方だとは思っているのだろう。しかしその彼も本が彼女の元へ行くことには賛成のようだ。
「店主に話すかはさて置きますが、どちらにしても此方に置いておくわけにはいかない物かと思います。譲って頂いてはどうでしょう」
二人に背を押されるように恐る恐ると彼女は手を本に添えた。ゆっくりともう片方の手で本の背を取り、バラカートの手からそれを受け取った。

皮で作られたしっかりとした表紙を撫でると静かに微笑んだ。
「…あの…有難う、御座います…バラカートさま、…ジョフィーさま」
「……………ジョフロアです。ニルヴァーニアさんまで…」
ジョフロアは一人、頭痛が鳴り始めているのを感じた。




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