翠の天幕にて


執筆:イヤス(望月大福)
挿絵:マリアール(蓮花)・キーラ(音羽)



「イヤス、コンバンワ! 今日ハ何カイイコトアッタ?」
「…………ない」

 全身からぽたぽたと雫をたらしながら、むっつりとイヤスは答えた。
 イヤスのすぐ後ろ、天幕の外では、激しい音を立てて雨が降っている。オアシスの緑は雨に打たれて下を向き、昼間は美しい輝きを映していた水面は、水底の砂が巻き上がり、濁った色を見せていた。
「……ぬれちゃった」
 鳥籠に向かい合うように、とんと腰を下ろして、イヤスは雨を吸ってすっかり重くなったクフィーヤを払い取る。落ちる水滴を振り飛ばしながら、ぽつんとつぶやいた。
「うた、聞きたかったな……」 
 踊りが見たい、と最初に言い出したのは、誰だったか。
 砂砂漠をの移動の途中、やっと辿りついたオアシス。厳しい旅路にも、ほっと一息つける夜を迎えることができそうだった。体力はもとより、精神的にも疲れきった旅人たちは、誰からともなく、ちょっとした娯楽を求めた。
 歌、踊り。そしてうまい料理と酒。
 砂漠の真ん中で騒ぐなど、あまり褒められる考えではなかったが、世話役のマリーヘは意外にあっさり承諾した。隊商の中に多い、まだ旅なれない若者たちを気遣ったのかもしれなかった。
 集まって楽しむことにはノリの良い隊商の面々、手分けをして宴のための準備をする。力仕事の得意な見習いや護衛は、天幕用の柱や板を使って、踊りのための即席舞台を作る、たいまつをあちらこちらに並べる。それ以外の見習いは、料理の手伝いや食器の用意。食べ物や飲み物を扱う商人たちは、マリーヘからの思わぬ買い上げの依頼で喜んだ。
 夕暮れ近い頃には準備も整い、あとは食事と酒を並べるばかり、というとき。
 オアシスは、思わぬ通り雨に見舞われたのだった。
 桶をひっくり返したような、という勢いだった。面々は大慌てでバラバラと近くの天幕に駆け込み、中心の広場はあっという間に無人となった。
 イヤスも人にもまれながら、このインコの住む天幕に飛び込んだものの、隣にいたはずの父親とはぐれてしまい、今はすでに声も聞こえない。
「アブ、だいじょうぶかな? ぬれてつらくなってないかな」
 雨がやんだら、さがしに行かなくちゃ。ひとりごちながら、ゆっくりと絨毯に身を沈める。
 今日は少し間が悪かったが、もともと雨は嫌いではない。砂漠には珍しい雨の音は、もの静かな音楽にも似て、耳に心地よい。それでも、なぜか動く気にもならず、ぼんやりと思考がとまってしまうのは、水気を嫌う火のジンの血が体の半分をめぐっているせいだろうか。
 そんな様子を察してか、この天幕の主であるインコは何も言わず、鳥篭の中からじっとイヤスを見ている。物音一つしない天幕の中に、天井を打つ雨音だけが響いていた。
 と、
「……誰かくる」
 イヤスがパっと身を起こした。雨音に混じって、ひあああああああ、と甲高い悲鳴が近づいてくる。ばしゃばしゃ水のはねる音が近づくと、

「マリアール、コンバンワ! 今日ハ何カイイコトアッタ?」
「はあっ、はあっ、ひゃっ、え、い、いいことですかっ? ええとっ、はあっはあっ、うーんと、うーんと……」
 
 白い影が飛び込んできた、とイヤスの目には映った。
 小柄な少女だった。しとしとと雫を垂らす灰色の髪、麻色の服が濡れてぴったりと張り付いた肌は、透けるように白い。全身に淡い色合いを発した姿は、翠に統一された天幕の中で、羽のように浮かんで見えた。走ったせいか、それとも雨に打たれて体が冷えたのか、膝をかすかに震わせながらうつむいていたが、やがて不思議そうに自分を見る先客に気づき、
「はあはあ、こんにち……うっ、ごふごふっごほっ!!」
 息をつきながら、イヤスに笑いかけようとした少女が、とつぜん盛大に血を吐いた。
 敷き詰められたじゅうたんは真っ赤に染まり、飛び散った血の端は、めぐらせた幕に点々と飛び散った。
「えっ」
 イヤスが思わずぎょっとして後ずさる。
 常人よりも弱いイヤスの目にもハッキリと見て取れるほど、血の染みは広かった。
「あ、あなた。だいじょうぶ? どこかケガしたの? びょうき?」
「ごっごめんなさい、大丈夫ですっ!」
 あわてて駆け寄ったイヤスを手で制しながら、ふところからミンディール(ハンカチ)を取り出すと、ごしごしと口元をぬぐう。
「わたし、よくこうなっちゃうんですけどっ、でも全然平気ですから、心配しないでください!」
 口の端から新しい血を垂らしながら、少女はにっこり微笑んだ。普段は白く輝いているだろう並びの良い歯が、今は赤く染まっている。
「う、うん、それならいいんだけど……でも、血がいっぱい……」
「ホントに大丈夫ですっ、ほらっもう元気ですから!」
 すこしは落ち着いたのか、少女はさらに赤い口を開けて微笑む。あごからしたたる鮮血よりも少女の言葉を信頼することにしたイヤスは、「そう?」とつられて笑顔になった。 
「わたし、マリアールって言いますっ。気軽にマルって呼んでくださいねっ!」
「うんわかった。よろしくね、マリアール」
 互いにずれた会話に気づかないまま、えへへ、ふふふ、と笑いあう。

「キーラ、コンバンワ! 今日ハ何カイイコトアッタ?」
「そぉねぇ……もう少しでイイ事がある予定だったんだけど?」

 そんな微妙な温度の中を、再びインコの声が響く。
 天幕の入り口に現れたのは、つややかに濡れた黒髪をかき上げる、妖艶な美女だった。大きく開いた胸元や腕からしきりに雫が流れ落ちるさまが、ハッとするほど艶かしい。
「ここは空いてるのね……あら。あなた、大丈夫?」
 胸元を真っ赤に血で染めたマリアールに、形の良い眉をひそめただけの反応で済ませたのは、この美女が見かけによらず豪胆な性格の持ち主であることを示している。
「私もちょっと雨宿りしたいんだけど、お邪魔するわね」
 足元に広がる血の染みを長い脚で跨ぎ、天幕の奥にゆったりと座る。頭を軽く揺すって髪の水滴を飛ばすと、まだきょとんと突っ立ったままの二人に、
「座ったら?」

 にっこりと微笑んだ。すでに場の主導権は、この美女に握られてしまっている。インコが、鳥篭の中で黒い目をしばたかせ、興味深げに三人を見つめていた。
 言われて、おずおずとその場に腰を降ろす二人の顔を交互に見比べて、
「お目にかかるのは初めてかしら? ……それじゃ、自己紹介しておかないとね」
 滑舌のよい声は、どこかで聞いたような気もするが、確かにイヤスにはなじみのない声だった。
「私はキーラ。商人をやってるわ。楽器専門のね」
「楽器ですかっ? わあ、素敵ですね!」
 ミンディールで自分の胸元をこすっていたマリアールが、明るい声をあげた。キーラは目を細めて、
「楽器が好きなの?」
「はいっ! あのっ、わたし、うたうたいをしていて……だから、音楽とか楽器とか、とっても好きですっ」
「わあ、マリアールはうたうの?」
 にこーっ、と笑顔を浮かべたマリアールの言葉に、今度はイヤスが反応した。
「それじゃあ、今日は残念だったわね」
「マリアールのうた、ききたかったなぁ」
 相変わらず聞こえてくる雨音に、苦笑して顔を見合わせるキーラとイヤスに、少女は慌てて手をふる。
「あっでっでもっ、わたしは、他の詩人さんの後ろで歌ってるだけで……」
「あら、そういう役割の方が、案外技術が必要だったりするのよ」
「そっ、そうでしょうか……」
 少し恥ずかしそうに、血まみれのミンディールを両手でくしゃくしゃに揉むマリアール。
「あ、そうだ」
 イヤスがぱっと顔を輝かせた。
「ねえ、マリアール、ここでうたって?」
「えっ?! こっこっこここ、ここでですか?」
「うん。わたし、マリアールのうた、ききたい」
 にこにこと笑うイヤスの要望に、白い頬がさっと朱に染まる。
「でっでもっ、……いつもお友達と一緒に歌ってたから、一人でなんて久しぶりで……」
 上気した熱を冷やすように、両手を頬に当てて戸惑うマリアールに、
「あら、いいじゃない。たまには主役で歌ってみたら?」
 二人だけの観客だけど、とキーラがあでやかに笑った。
「……………………じゃ、じゃあ……聞いてください、ね?」
 沈黙のあと、うたうたいの少女はおずおずと立ち上がった。
 目を閉じて、すう、と息を吸う。それが細い体を下から支えあげたかのように背筋がピンと張ると、再び開いた赤い瞳は、先ほどまでのためらいや戸惑いを欠片も残してはいなかった。
「………………わぁ………………」
 イヤスが小さく声を漏らす。
 高い声だった。
 しかしそれは、不快な高音ではない。鈴よりもなお高い、細い細い一本の糸が震えるような、頭の芯を心地よく揺らすさざめきだった。
 少女のさえずりが、密閉された天幕の中を満たす。

「…………」
 キーラは長い睫毛をふせ、この響きに聞き入っている。インコも首をすっぽりうずめて、さえずることもなくぎゅっと目を閉じていた。
「…………」
 なんだろう、きもちいい。
 雨に濡れた気だるさも手伝って、イヤスの体からゆるゆると力が抜けていく。耳から伝わる振動にすべての意識を集中させたくなり、まどろむようにまぶたを閉じかけたとき、
「…………うっ!」
 調べは突然やみ、ごぼぁっ、と少女らしからぬ声で呻く声、そして水の爆ぜる音。
 嫌な予感に少しだけチラッと開けたイヤスの目に見えたのは、赤い広がりとその中心にうずくまる白い影だった。
「……医者を呼んできた方がいいかしら」
 さすがのキーラも固い表情でぽつりとつぶやく。その言葉に「おっお医者っ?!」となぜか顔を血よりも真っ赤にしたマリアールが、がばっと勢いよく起き上がった。
「だっ大丈夫ですっ!! ちょっと声を出しすぎちゃ……ごほぉっ!」
 翠の天幕が赤に染まる。

 小休止の後。
「……ごめんね、マリアール。わたしがわがまま言ったから……」
「そんなに具合が悪かったなんて思わなかったわ」
「そっそんな、気にしないでくださいっ」
 しょぼんとうつむくイヤス、申し訳なさそうに眉を寄せるキーラに、マリアールはぶんぶんと首をふった。
「そんなに首をふったら、また……」
「わたし、とっても嬉しかったですからっ! わたしの歌をあんなに真剣に聴いてくれて……」
「とっても上手だったんだもの」
 反省の表情を残しながらも、イヤスは軽く微笑んだ。
「マリアールは、うた、ほんとに好きなんだ」
「……はいっ! みんなに楽しんでほしいし……そ、それに、……聴いてほしい人も…いて…」
 ごにょごにょごにょ、と口の中で消え入りそうに呟いた言葉は、小さすぎて二人の耳には届かなかった。
「雨がふったけど、よかったな。だって、マリアールのうたがきけたから……あ」
 イヤスがふと顔を上げた。
「雨、やんでる」
「え?」
「あら、本当」
 先ほどまで響いていた雨の音が、いつの間にか途絶えている。代わりに聞こえてきたのは、
「お、キレイに上がったな!」
「たいまつが濡れちゃってるわ。火、つくかしら?」
 がやがやと明るい喧騒。
「どうやら、今度は舞台で聞かせてもらうことになりそうね?」
 ふふ、とキーラが微笑んだ。
「みんなといっしょにうたえるね。マリアール、がんばってね?」
「はいっ! がんばりますっ! ……ぶぶっ!」
 元気いっぱいに返事をした瞬間、力が入りすぎたのか、今度はマリアールの鼻から鮮血がほとばしった。
「あ、マリアール、しっかりして」
「ちょっとちょっと、本当に大丈夫?」
「だ、大丈夫です……あれ、なんだか頭がクラクラする……」
 血を失いすぎて貧血まで起こしたのか、両脇を二人に支えられながら、蒼白な顔でそれでも健気に微笑むマリアール。
「少し不安だけど……それじゃあ行きましょうか?」
 苦笑しながらキーラが立ち上がった。
「はい! あっ、でも、じゅうたんの染みを取らなくちゃ……」
「後でいいわ。あなたの出番が終わった後でね」
 絨毯に広がった赤い染みにちらちらと目をやるマリアールに、いたずらっぽく片目を閉じてみせると、白い手を取ってさっさと歩き出す。
「い、いいんでしょうかっ」
「いいのいいの!」
 自信たっぷりに言い切るキーラが、続いて彼女に手を引かれたマリアールが、天幕の外へ姿を消した。
 一人残ったイヤスは、そんな二人の様子を、おかしそうにくすくすと笑いながら、あのね、と鳥籠を振りかえる。
「今日はねぇ、これからイイコトがありそう」
 その言葉がわかるのか、かわいらしい仕草で左右に首をかしげるインコに、
「それじゃあ、また来るね」
 ちょん、と指先で軽く鳥籠をつつくと、二人の後を追いかける。
 天幕の入り口をくぐって出てゆく背中に、インコは元気な声で呼びかけた。

「イヤス、サヨナラ! サヨナーラ!」




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