依頼
執筆:菅李人(バッサーム)
挿絵:蓮花(マリアール)/えるみ灑羅(ソティス・シャムス)
<序章、護衛から詩人へ>挿絵:蓮花(マリアール)/えるみ灑羅(ソティス・シャムス)
『アナーシード』の起こり
その昔、沙漠を旅する隊商が砂嵐に道を失い水も尽きてついに斃れかけた時、少年の姿をした水のジンと少女の姿をした地のジンが彼らの前に現れ、小さなオアシスに隊商を導いてその命を救いました。人々はそのオアシスに定住し、彼らを救った女神とジンへの感謝を籠めて女神の礼拝堂と二人の記念の碑を建てました。それが、この町の起こりと伝えられます。
この二人のジンは楽士と詩人であったとも言われ、迷える隊商を導くに歌を以ってしたと伝わる事から、町の各所には彼らが歌ったといわれる歌、後世の人々が彼らへと贈った歌、女神の恩恵を讃える歌が刻まれた歌碑がいくつも残されており、町の見所のひとつとなっています。
また、町の中心にある礼拝堂の裏手にはさらに古い時代の神殿の跡地があり、今でも年に一度水の女神の祭事が行われます。その背後に広がるオアシスの一部は神域とされ、人々の立ち入りが禁じられています。
――歌と古伝承の町『アナーシード』 観光案内より――
「歌ねえ、」
「歌なんです!」
素敵でしょ!? と力説するマリアールの口元には、先ほど拭った血の痕が微かにすじになって着いている。それを気にしたソティスが案内の紙面から目を離してその顔を凝乎と見返すと、話の続きを促されたと勘違いした少女がぱあっと表情を輝かせた。あ、失敗したなと女護衛は思ったが、既にあとの祭りである。マリアールは声を弾ませて、がさがさと手元から数枚の紙の束を取り上げた。
「ええっと、町の中の歌碑は大体回ったんですけど」
すてきな歌ばかりで! と嬉しそうにほらほら、と見せてくれるが、ソティスにとって書付けられたそれはそれは何らかの記号が並んでいるに過ぎない。そうですねこの楽譜の書き方はちょっと古いので読みにくいかもしれません! とずれた心配をしたマリアールがこれはですね……とひとつひとつ解説を始めようとするので、ソティスは苦笑してやんわりとそれを遮った。
「流石、詩人だな」
町中の歌碑を丹念に巡って刻まれた歌詞と楽譜を書き写しているマリアールの姿を思い浮かべ、ソティスは思わず声に出して笑った。無論からかいの意図は少しもなく、純粋な敬意と、そして心配から来るものである。それを知っているマリアールは眉を下げて、えへへ、ごめんなさい、とつむじ辺りを手で掻いた。
なんとなれば、少女は倒れたのだ。つい、先刻町中の歌碑の前で。
楽譜集めに夢中になる余り自身の体調に気付かなかった少女は、ある歌碑の前で突然血を吐いて昏倒した。騒ぎになりかけたところへ同じ隊商のソティスが偶然通りかかり、兎に角も身柄を引き受けて近くの店へと運び込んだのである。幸い倒れ慣れているらしく、すぐに気がついた少女と差し向かいで食事をしているのはそういう経緯だった。
夢中になっちゃって、とばつが悪そうに笑う少女は、しかし懲りてはいないようだった。
「随分集めたねえ」
ふとかけられた声に二人が振り向くと、丸い耳の縁に丸い眼鏡を懸けた人好きのする雰囲気の中年の男が笑っている。マリアールの手元に広げられた譜面の事を言っているらしい。えへへ! と誇らしげに笑う少女に男は相好を崩す。
「お嬢さんも詩人ですか。礼拝堂のほうには行きましたか」
「あっ、まだなんです。町の中を見てからと思って。詩人の方がお知り合いなんですか?」
「ええ、妻がね……。礼拝堂にも、素晴らしい歌が沢山ありますよ。ぜひゆっくり見ていらっしゃい」
はい! と答える少女は、既に腰を浮かせている。キラキラとしたその瞳の輝きに、これはダメだ――とソティスは天を仰いだ。止めても無駄だろう、と判断し、自分も席を立つ。マリアールが不思議そうな顔をした。
「あれ、ソティスさんも。どこ行くんですか」
何処へ行くも何も、マリアールを一人で行かせたら先刻の二の舞になるだけだ。そういうと彼女は慌てて、いいですいいです、悪いです! と両手をぶんぶん振った。ふむ、とソティスはマリアールを見て首を捻る。
「それならこうしようか。私がひとりで礼拝堂を見物しに行っても、楽譜が読めないんだ。だから、マリアールが歌って聴かせてくれない?」
どう? と尋ねれば、マリアールは今度は嬉しそうに頭をぶんぶんと振り、「マルって呼んで下さい!」と歌うような声を跳ね上げて――眩暈を起こしたかぐらりと傾いだ。
《次のページ》