依頼
<少年から護衛と詩人へ>



 最初から予想していた事では有るが。
 凄い凄い、とマリアールがあっちこっちの壁や碑に片端から張り付く後から、ソティスはゆっくりとその細い背を追いかけて歩いた。時にふらつき咳き込む少女を気にかけつつ歩くことは少し骨が折れたが、そも護衛はそれが生業というところも多分にある。時折歌いながら嬉しそうに振り返るマリアールの笑顔に、いい天気だなと目を細めて答えた。礼拝堂で女神に祈りを捧げ(ここでも既に随分時間がかかっている)、それでも何とか二人は礼拝堂の背後にある神殿の跡地に足を踏み入れていた。
 すっかり観光ポイントにされている神殿跡は残った部分も風化しているところが目立つ。だが比較的残りの良い箇所の前には所々案内板が立ち、マリアールは真剣にひとつひとつ説明を確認しながらうっとりと写し書きをとっている。ソティスといえば、そろそろ小腹が空いて来たなと思いながらマリアールに声をかける機会をうかがっていた。
「ねえ、マル――」
 ソティスの声にマリアールが振り返ったそのときだった。
 背後で唐突に起こったざわめきにソティスは反射的にその方向へ顔を向けた。人の合間を縫って小柄な影――どうやら少年のようだ――が走ってくるのが見えた。そしてその後から二人の男が追ってくる。少年は動転して棒立ちになる観光客の間をすり抜け、次いでソティスとマリアールの目の前を駆け抜けた。マリアールが思わず声を上げて飛びのく。
 続いて追いすがる男たちが顔の先を通過する際、――ソティスは何食わぬ顔をして足払いをかけた。見事にひっくり返った男たちの倒れたその音に少年が振り向いて目を剥く。
 咄嗟にその手とマリアールの細い手首を掴むと、背後から男たちが焦った声で何か叫んでいるのをまるきり無視してソティスはさっさとその場を逃げ出した。

 「ありがとう、助かった」
「それはいいけど」
 頭を下げた少年になんで追われてたの? と尋ねれば、ぐ、と少年は口を噤んだ。どれだけ逃げていたのか、呼吸は落ち着いたものの伸びかけた短い黒髪から覗く尖った耳と小麦色に陽に焼けた顔にはまだ血の色が上ったままだ。勢いで助けたものの余計な事をしたかなと内心嘆息するソティスの横で、不意にマリアールが何かに気付いてぐっと身を乗り出す。
「あの! それ、それどこのですか!?」
 それ? とソティスが少年の手元を覗き込むと、ガラベーヤの膝の上に縮こまる彼の手は確かに建物の装飾につかわれる類のタイルのようなものをしっかりと握り締めていた。成程、それにも楽譜らしい紋様がある。少年がびくりとして手を引こうとするが、マリアールの目には既にそのタイルしか入っていない。
「素敵……! でも、こんな壁いままでどこにも見ませんでした。どこの歌碑ですか?」
 確かに、今まで町中や遺跡で見てきた歌碑や壁画は石を素材としたものが多く、タイルを使ったようなものはひとつとしてなかった。うっとりとしたマリアールの言葉に少年が目を軽く見開く。
「あんた、楽譜読めるのか?」
「あっ、わたしマリアールっていいます。マルって呼んで下さいねっ」
「マリアールは詩人だ。私は護衛のソティス。あなたは?」
「……アクラム」
「そう、よろしくねアクラム。もしかして、それが原因で追いかけられていたの?」
 ソティスの再度の問いかけにも少年――アクラムは一瞬口篭ったが、その次の瞬間、思い切ったように伏せていた目を上げた。タイルを大切そうに持ち直すと、小さな声で答える。
「これは、母さんが置いていったんだ」
 置いていった、と鸚鵡返に繰り返して、マリアールが目を丸くした。
 なんでも半年前、アクラムの母が突然姿を消し、その母親が唯一残した手がかりがこれなのだと少年は言った。彼女の姿の無い家の中、このタイルだけが寝室のベッドの上に不自然に置いてあったのだという。ジンである彼女は時折そういう風にふらりと出かけることがあったので、暫くはすぐに戻るものと待っていたのだが予想に反して彼女は何時までも帰ってこなかった。
 普段は父親が管理しているが、今日やっと眼を盗んで持ち出してきたのだと泣きだしそうに震える声で言った少年は、かける言葉もなく黙り込んでいた二人を唐突に振り仰いだ。
「ねえ、あんたたち。この壁があるところを教えるから、母さんを探すのを手伝ってくれないかい?」
「はあ!?」
「ねえ、頼むよ。きっとこれは何かのヒントなんだ」
 縋る瞳にそしてその声に、マリアールはもらい泣きしそうな顔をし、ソティスは困惑した。マリアールは今にも私でよければと頷きそうな気配である。ソティスは――少年と少女にじいっと見上げられて――遂に白旗を挙げた。
「だけど、探すって言ってもそれだけじゃどうやって――」
 まあ“探し物”ときたら、専門家がウチの隊商にもいない訳じゃないけど――
 唸るソティスに、あ、そっか、そうですね! とマリアールがぽんと手を打つ。
 呟いたソティスと答えたマリアールが何故かそこで顔を見合わせるのを、少年はきょとんとした顔でみつめた。

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