隊商宿の一幕
夜の帳が下りるまえに、なんとか部屋は片付いた。袖に引っ掛けて香木を散らかしたり、裾に蹴躓いて箱の山を崩したり、手が滑って香水の瓶が割れたり、そんなことが起こらなかったわけでもないが、とにかく片付いた。乱雑に散らばっていた袋や箱はきちんと整頓され、部屋にはようやくもとの通りの、広々とした空間が形成された。
「なんとか終わったな」
「良くこれを整理しようと思ったな、お前……」
「いやいや、二人ともご苦労さん、助かった」
オルハンは二人に、深々と礼をした。
「じゃあアルファルド、これな」
オルハンは一つ箱をアルファルドに手渡した。
先ほどヤズィードが見つけた、魔道具の詰まった箱だ。
「……もしかして厄介もの押し付けられたとかじゃねえよな?」
「あんたが魔道具好きってぇから渡すんだ、間違えんな、そう変な呪いの道具じゃねえはずだし」
「怖ぇなぁー」
言いながらも、アルファルドは箱を受け取った。
「えーと、それから」
オルハンは、ヤズィードに向き直った。
「ヤズィード、どんなもんが欲しいんだったっけか?」
「お香が欲しいって、言っていた」
「なんだあ、ヤズ、いい人にでもあげるのか?」
にやにやとアルファルドが笑い、ヤズィードも微笑みを返した。
「そうだ」
さらりと言い切ったヤズィードに、アルファルドは更に笑みを深めた。
「香っつってもいろいろあるけどよ、好みとかはわかるのかい?」
オルハンは香の箱をまとめた区域に近づいた。手分けをして、箱にある程度の分類を記入してもらったおかげで、随分わかりよくなった。
「俺は香のこと詳しくないからな…‥」
「うーん」
オルハンは、女性向けの香をつめた箱を二つほど選びだし、どさりとヤズィードの前に置いた。開けた箱の中には可愛らしく色付けされた丸い香〈バフール〉がぎっしりと詰まっていて、まるで菓子箱のようだった。
「こっから好きなの選べよ、今日の礼だ、銭はもらわねえから」
「それは有難いが……選ぶのが、難しいな」
ヤズィードは薄く眉間に皺を寄せて、箱を覗き込んだ。恋人にあげるものだそうだから、悩むのも無理はないが、それとはなんだか違うようだ。
「匂いで選べばいいだろ、香なんだから」
「それが難しいんだよ」
「女ものだからか?」
ヤズィードは、困ったような顔で、オルハンの方を向いた。
「……実は、さっきから鼻が利かないんだ」
「え?」
きょとんとしたオルハンの横で、アルファルドも頷いた。
「あ、俺も思ってた。すっげえ匂いするもんな、この部屋」
ありとあらゆる香が詰められた荷をつくったのだ、無理はなかった。香りの渦の中でずっと過ごしているオルハンはまったく気にもしていなかった。
「わかった、もう良いこの際色で選べ。」
「乱暴だなぁ」
眺めているアルファルドが笑った。ヤズィードはそれでも決めかねるようで、箱を睨んで硬直していた。
「俺はそろそろ行こうかなあ、マリ姐もきっと忘れてくれてる頃だろうし、そろそろ飯の時間だし」
飯の時間という言葉に、ヤズィードが突然立ち上がった。
「もうそんな時間か!?」
「え、ああ、多分。外暗いし」
「そういえば、食事の匂いがする」
唯一鼻の利くオルハンが告げると、ヤズィードはしまった、と呟いた。
「支度の時に手伝おうと思ってたのに……」
そのヤズィードの様子に、アルファルドがにやりとした。
「ああーもしかして、いい人って料理人だったのか?」
「そうだ」
その清清しい言い様に、アルファルドにつられてオルハンも笑った。
「そりゃあこんな時間まで捕まえちまって悪かったな」
「いや、気づかなかった俺がいけない」
「じゃ、さくっと選んで行きな」
「うん、そうする」
ヤズィードは、オルハンの差し出した箱から、すばやくひとつ、包みを選び出した。淡い赤色の香だった。
「木苺〈マシュムーム〉だな、たしかに女性ウケは良い」
「ありがとう、それじゃあ、急ぐので」
ヤズィードは袋を手に、足早に部屋を去っていった。人生を謳歌する青年を、年下の男二人は、些か呆然と見送った。
「……最近ああいうの、増えたなぁ、気のせいか?」
「……そうかもなぁ」
まだ春じゃねえのにな、と呟いたのは、はたしてどちらの男だったか。
《前のページ》