予祝の音
「遅いですよ、折角のお茶が冷めてしまうではありませんか」
天幕に戻って真っ先に叱声を浴び、リーフとイアマールは軽く首を竦めた。竪琴に気を取られていたのだと弁明すると、ヨミはリーフが手にしているそれを一瞥して小さく鼻を鳴らした。
「ま、良いでしょう。早くお飲みなさい」
「はーい」
大人の男性だと頭ではわかっているのだが、どうにも年不相応に取り澄ました少年のように見えて、思わずくすくすと笑ってしまう。本当は淹れたてが一番美味しいんですよ、と小言めいて説明されたお茶は、充分に美味しかった。
満腹感がじんわりと広がり、会話も少なくなったところで、おもむろにイアマールは先刻拾ってきた竪琴へ手を伸ばした。やさしく表面の砂を払い、外れてしまった弦を張りなおす。
「貴女、商人でしたよね」
弾けるんですか、と尋ねたヨミに、イアマールは調音しながら頷いた。
「あたしの故郷じゃ、女はみんな一通り習わされるの。嫁入り修行の一環みたいなものね」
「んー……じゃあ、何か弾いてみてよ。私たち、見回りの当番までまだ時間があるから、もう暫く暇なの」
「そうですね、お願いできますか」
無論、イアマールに否やは無い。すべての弦が調節出来たのを確認して、抱え直す。素朴なつくりの竪琴の音は、洗練されてこそいないものの丸みを帯びたやわらかさを持っていた。
(なにが良いかしら……)
こういうときに思い浮かぶ楽曲が、捨てたはずの身分や故郷と密接に関わるものであることに微かな苦味が湧き上がるが、少しなりと二人に喜んでもらえるならそれも良いだろう。一歩間違えば大怪我に繋がるところを助けてもらい、楽しい夕食を共にしてくれた、せめてもの礼である。使えるものは何でも使うと決めたではないか、と逡巡を振り切った。
「あまり期待しないでね、弾くのも歌うのも久しぶりだし」
向けられる視線に少しばかり照れて前置きし、イアマールは最初の音を奏でた。一節遅れて薄く唇を開き、自らの声を重ねるが、それは意味のある詩を持たない、響きの美しさによって楽するものだ。
また風が強まってきたのだろうか、それとも会話が途切れたからか、奏しながらイアマールの耳は天幕の布を打つ砂粒の音を聞く。砂漠を生きる者にとって砂嵐は永遠の宿敵に他ならないが、砂の降る音は予祝の音であると、イアマールはそう教えられて育ったのだった。
「……おそまつさまでした」
短い曲を終えて言うと、礼儀正しい聴衆であったヨミとリーフはそれぞれ俄か奏者をねぎらった。技術のよしあしであるとか、練習の過不足について批評されるのではなく、純粋に感想を述べられるのは初めてかもしれない、とイアマールは胸が温かくなるのを感じる。
「なんていう歌? ……曲? なんだか不思議な感じ」
「雨乞いの曲よ。本当は、一人じゃなくて五人とか十人でやると綺麗なんだけど……今日みたいな砂嵐の日に、神殿で演奏するの」
「砂嵐が止むように、というのならわかりますが、雨乞いをするのですか」
いまひとつ脈絡がない。腑に落ちない顔のヨミに、イアマールは軽く笑って天井を指差した。
「こう、砂が屋根とか壁にぶつかる音って、雨音に似てるでしょ。だから、降ってくる砂粒が雨粒に変わりますようにって、お祈りするの」
「へぇ、おもしろいね」
「ふむ……まったくもって非現実的ですねぇ。良い暇つぶしにはなりそうですが」
そんな風習があるんだ、と頷いたリーフの横で、信仰を貶すわけではないが自分は縁ないもので、とヨミは明言する。形ばかりの信仰を掲げて私欲を肥やす連中よりは、彼のように最初から神を信仰しないと言い切ってくれたほうが心地よい。こういう人もいるのね、とイアマールは感慨を覚えつつ、茶器に一口分残っていたお茶で自分の喉を労った。
「でも、もし今、イアマールの祈りが届いて、この砂が雨に変わったら大変なことになるんじゃないかしら。天幕が流されちゃう」
リーフは軽い口ぶりで言ったが、実際、実現すれば大変どころの騒ぎではない可能性のほうが高い。砂漠の民にとって水は貴重であり宝だが、雨という形で与えられるそれは脅威の面も持っている。空気を湿らす程度であれば問題ないが、物慣れない人と砂の地面とは、急に与えられる大量の水を受け止めかねてしまうのだ。不意に生まれた濁流に、羊や山羊がのまれてなすすべもなく死ぬ。時には、人さえも。女神が人に恵みだけを齎すことはない。
「嫌ですねぇ。本当に降るなら、私が貯水設備の整った町にいるときにして欲しいですね」
縁起でもない方へ転がった想像を、平坦なヨミの言葉が遮った。お茶を淹れるには雨水よりも湧き水のほうが良いのですが、と言う青年の関心はどこまでもお茶にあり続けるらしい。
イアマールは努めて明るい声を出した。
「今みたいな移動中は困るけど、雨の日は好きよ。祈りの歌さえ歌い終われば、あとは安息日扱いになったから」
「仕事がお休みになるんだ?」
「そう。町中のお店がさっさと店じまいして、みんな自分の家に帰るの。それで、家族や親しい人とゆっくりすごす決まりよ」
実のところ、イアマール自身がそうして家族と穏やかなひと時を共有した覚えがあるわけではないのだが、やらねばならないことの枠外で年の近い巫女たちと好きなように過ごすことが楽しかったのは確かだ。離れた今となっては、決してきれいな友愛だけの仲ではなかった彼女たちとの思い出さえ、いとおしいものだったと思えてくる。そして、それはまた、この隊商における日々についても言えることだった。未来の自分はきっと、この時間をいとおしむだろうと、イアマールにはわかる。
「……いつか、どこかの町で雨が降ったら、今日みたいにお喋りしたいわね」
「いいよ。そのときは、美味しい料理とお菓子とお茶を用意しなくちゃ」
「お茶を淹れるのは吝かではありませんよ」
実現するかもしれないし、しないかもしれない。そんな曖昧で朗らかな想像にイアマールは笑い、抱いたままだった竪琴の弦を弾く。ぽろろんとこぼれた音は、瑞々しい青葉の先から跳ねる雫のようだった。
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