予祝の音


執筆:イアマール(イケダ)
挿絵:リーフ(えるみ灑羅)・ヨミ(nina6)



 軽率だった、とイアマールは下唇を噛んだ。防砂布の合間から入り込んだ砂の感触が気持ち悪い。びょうびょうと吹き荒れる容赦の無い風に、耳がおかしくなりそうだった。

 黒ヒゲの町をあとにし、星詠みたちの導きに従って進んでから数日が経っていた。足場は硬い荒野から徐々にきめの細かい砂地へと変わり、人々は砂避けの布をきつく巻きなおさなければいけなかった。気を抜くと無限のやわらかさを持つ砂に足を取られ、転びそうになる。傾斜のあるところではなおさらだ。自然と歩調はゆるやかになり、細長く伸びた隊商の列は乱れ始めていた。
 日が傾きかけた頃、先頭を進むマリーヘは、緋色に染まった空を綿のような雲がするすると滑るように流れていくのを見て、嫌な予感を覚えた。足元を見れば、細かな砂粒が西日に灼けて赤く色を変える先から吹き飛ばされていく。目まぐるしい色の輪廻は、言いようの無い不穏さを孕んでいた。
 移動中、隊商の進退を伝達するのは商人や芸人たちを守るようにして点在する護衛たちの役目である。マリーヘが傍らにいた護衛の男へ小休止を入れましょう、と提案しかけた矢先、彼女の予感は的中した。
「きゃあっ」
 ひときわ強い風が横殴りにふき、煽られた人々の悲鳴と駱駝の嘶きをかっさらっていく。そのうち、荷を山のように積んだ一頭の駱駝が倒れたのを皮切りにして、隊商はいくつかに分断されることとなった。縄が切れ、背に縛り付けてあった荷が砂山の上を転がっていく。はるか遠い上空から見下ろすことが出来れば、太い麻縄が見えない刃によって切断され、縒られた麻がほぐれていくようにでも見えただろう。
 風は、随分と長い間吹き続けた ――― 否、長いと感じたのは、その乱暴な腕に抱かれた者たちにとってだけの感覚であったかもしれない。
 そのとき、イアマールはちょうど列の中ごろ、ばらけつつある切り口に程近い場所にいた。その前後に商人が集められていたのだ。最初の強風を咄嗟に頭部を庇うように身を竦めてやり過ごしたものの、砂の上では踏ん張りがきかずに体ごと押し流されてしまう。それでもなんとか堪えながら薄く目を開いたとき、イアマールは自分の斜め前を歩いていた驢馬が風にあおられて脇へそれようとしているのを見た。そばにいた鳥獣使いは、傍らの駱駝を抑えるのに精一杯になっている。
 ひるがえった手綱へ、手が届いてしまったのが悪かった。次の瞬間、イアマールの体はこんもりと荷を積んだ驢馬に引きずられるようにして、大きく列からそれていた。咄嗟に離れようにも、引く力の強さで絡まり締まった手綱が解けない。足先が浮いた。
「っ……!」
 手から腕へ走った痛みに悲鳴を噛み殺すのとほとんど同時に風音に紛れて切れ切れに声がしたかと思うと、ふっと引きずる力が消え失せた。間髪置かず、横から体を強く抱き寄せられる。
 人の志慮など歯牙にもかけぬ自然の猛威が過ぎ去ったとき、イアマールは若葉色の髪をした女性に縋るようにしてしゃがみ込んでおり、傍らでは少年と思しき人物が ―― 実際にはイアマールよりも八歳の年長の成人男性なのだが、この時点ではわかる由も無い ―― 嘆息しながら捲れあがった外套を整えていた。
「まったく……ムロムロが手綱を切らなければ、肩が外れるどころではすみませんでしたよ」
「ふぅ。私ごと飛ばされるかと思った! 怪我は無いかしら」
 どうやら、この二人に助けられたらしいと理解して、イアマールは肩の力を抜いた。
「ごめんなさい、……ありがとう、助かったわ」
 風は完全に止んだわけではないが、一時的におさまったらしく、周囲でも安堵の声が上がっている。興奮した動物たちの荒ぶった鳴き声に、鳥獣使いの宥める柔らかな声音が重なる。今のうちに隊列を整えるようにと、マリーヘからの連絡を伝える護衛や見習いが忙しなく立ち働いていた。


 再びの嵐に飲まれぬようにと、隊商は急ぎ手頃な場所を探して移動し、時間でいえば平生に比べてやや早いうちに野営の準備を整えた。
 燃えるようだった空は、早々と深い藍色に姿を変えている。ひゅうと吹き付ける風は先刻のそれに比べれば優しくさえあったが、一方で太陽に別れを告げた時分、身を竦ませるような冷ややかさを含みつつあった。
(はやいところ、ゆっくり休みたいものだわ)
 事情を聞いた医者のアーリクとジョフロアに苦言を呈されながら診察を受けたイアマールは、脱臼や筋を傷めたりはしていないようだが念のためにと清涼感のある軟膏を塗布された腕を軽く押さえつつ、休めそうな天幕を探して歩いた。こういうとき、特定の同行者がいない身の上が堪える。
 火の粉が飛ぶ恐れがあるため、篝火は常よりも小さく、少ない。その炎を視界の端に捉えながら、イアマールは行きかう人々の顔が一見わからぬほどに暗くなったことを自覚し、ひとまず先に食事を確保することに決めた。
 日頃であれば自炊する姿も点在するのだが、今日のような状況では自粛する者 ―― あるいは、転がった荷を回収したり興奮した動物たちを宥めることで気力を使い果たした者が多いと見え、料理人たちのいる一角は人だかりが出来ていた。イアマールは喉元までこみ上げた溜息を飲み込み、大人しく列に加わる。いつ強風に襲われるとも知れず、大掛かりな竈をこしらえるのを控えたため、並んだ人々は選択する余地もなく、野菜と燻製肉を簡単に香草で煮た羹と平たいパンが平等に配膳された。
「おや、先ほどの……腕は大丈夫でしたか」
 声を掛けられて視線を巡らすと、恩人の一人が立っていた。両手には、まるきり同じ内容の食事が載った盆を持っている。頭上に鎮座しているのは、一見風変わりな帽子のように見えたが、そうではなく召喚士である彼が使役するルフなのだとすでに知っていた。
「ええ、おかげさまで。一応薬を塗ってもらったわ」
「それはなにより」
 それだけの会話ですぐに離れてもなにもおかしいことはなかったが、イアマールは行く先が決まってないこともあって、連れ立って人込みから離れた。篝火と篝火の合間の闇で、どうしようかと見回したイアマールの視線に気がついたのかどうか、
「もしよければ、私達の天幕に来ませんか。美味しいお茶を入れて差し上げますよ」
 彼は見た目にそぐわぬ大人びた紳士的な口調でイアマールを誘い、もちろん、イアマールはそれに相応しい淑女的な態度で了承した。


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