奇怪の塔


執筆:ムハンナド(Nasato)
挿絵:カーム・アクス(雨月星一)・スフラ(たまだ)



 あまりに突然で、すぐには何事か図りかねた。

 地鳴りに似た音と叩きつけるような感触で、雨が降ってきたのだと、一拍おいて理解した。
 理解したその時にはもう、彼の全身が濡れそぼっていた。


 砂漠の概ね全土が雨雲に訪われるこの季節、ここ砂海の塔は反対にして、ちょうど水の涸れる時を迎えている。
 そのゆえか今までは雨が降ってもせいぜい霧雨程度で、しかもすぐ止んでしまうのが大概だった。
 だが、そういえば今朝早くにも、珍しく激しい通り雨があったのだったか。そのことを忘れて油断していたのは手抜かりだった。

 この激しさからしてこれもまた、おそらく単なるにわか雨だろう。そうはいえどもここまで激しい雨に打たれ続けるのもあまりいい気はしない。
 ムハンナドは辺りを見回した。そして雨を避けられそうな場所は近くに一カ所――街の象徴である高い塔しかないことを見て取って、そこに駆け寄った。

 塔のてっぺんからは、アザーンの朗詠が行なわれる露台が張り出していた。庇代わりとなるかと思いきや、いかんせん位置が高すぎて何の役にも立たない。ますます勢いづいた雨は、容赦なく前から横から叩きつけてくる。
(――参ったな)
 意味はないだろうと思いながら立ち位置を変えたとき、塔の壁に当てていた手が、石とは違う、ほのかに湿ったものに触れた。
 見ればすぐ隣に、大きな木の扉があるのだった。塔の中へとつながるものに違いなかった。
 例しに鉄の取っ手を引いてみると、扉は低い軋みとともに開いた。施錠されているのを予想していたから、少し拍子抜けした。

 その時突然、背後から声が飛んだ。
「ま、待ってーっ!」
 驚いて振り返ると、小柄な人影がこちらに駆けてくるところだった。
 同じ隊商の少女だ。確か料理人だったろうか。
「私も入れてくださいーっ!」
 ムハンナドは重い扉を引き開け、それが閉じぬよう体で押さえた。そして少女が戸口をすり抜けるのを確かめてから、後ろ手に扉を閉めた。

 少女は安堵したように息をついて、頭の上にかざしていた鍋を下ろした。
「ふう……びっくりしたあ」
 日に灼けた頭をふるふると振ってから、少女は改めてムハンナドを見上げてきた。
「ありがとう。――護衛さん?」
 クフィーヤの端から軽く水を絞りつつムハンナドが頷けば、少女はにっこりと笑んだ。
「やっぱり、何度も見たことあったもの。私はスフラだよ。料理人なの」
「……だったな、確か」
 ――まあ、手に持った鍋を見れば大概は分かろうものだが。
「うん。あなたは?」
「ムハンナドだ」
「ムハンナドさんね。宜しくお願いします」
 律儀にぺこりと頭を下げてから、スフラは円い眼をくるりと上に向けた。
「そういえば私、こんな塔の中に入るのって初めてかも」
「そうなのか?」
「うん。ムハンナドさんはこういう塔に登ったこととかあるの?」
 問われてムハンナドはかぶりを振った。
 ムハンナドの生まれた香雲の花の神殿にも、ここまで壮麗なものではないにしろ、光塔は備わっていた。
 だが、だいたい光塔というのはアザーンに使われるものだ。神殿の者、もっと言えばその中でも祈りを呼びかける者(ムアッズィン)以外には本来縁はない。
 だから特に足を踏み入れようと思ったこともなかったし、それができるものだとも思っていなかった。
「無いな。――ムアッズィンを務めていた者でもないかぎり、普通は登ることもないだろう」
「そうかあ、そう言われれば」
 言ってからスフラは、思い立ったように両手をうち合わせた。
「あ! じゃあ今登ってみませんか」

 唐突の無邪気な発言に、ムハンナドは少なからず面食らった。
「……登りたいのか?」
「うん、せっかくだし。高いところから街を見るのも面白そうだなあって、この街に来た時思ったの。ムハンナドさんは?」
 笑顔で小首を傾げられ、ムハンナドは一瞬返答に窮した。

 正直、塔やら高いところやらにとりたてて興味はない。特に今日などは、雨をしのぐためだけにここにいるのだから尚更である。
 ――だが、この少女を一人きりで塔の上に行かせるのも、なんとなく心配だった。

「……あんたがいいなら、ついていくが」
 言うとスフラは嬉しそうに頷いて、大鍋を抱え直した。
「あとで他の料理人のみんなに、どんなものが見えたか話してあげたいな」


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