奇怪の塔
上へと続く石造りの螺旋階段には、人一人がやっと通れる程度の幅しかなかった。足を滑らせた場合に受け止められるよう、スフラを先に行かせた。
薄暗い空間に二人分の足音が響く。それに紛れて、ところどころに掛けられたランプの灯心の焦げ付く音が、幾度ばかりか微かに聞こえた。
どれほど登ったところだったろうか。
少し先にいたスフラが突然、小さく悲鳴をあげて立ち止まった。
「どうした」
急いでスフラとの距離を詰めるや視界が開けて、そこで階段が途切れたことを知った。
今スフラとムハンナドの目の前にあるのは、円の形をした小さな部屋だった。
そしてそこに、ムハンナドにとっては見覚えのある人影があったのだった。
三十絡みの男だ。煙管を口にくわえて、床に敷かれた絨毯の上に腰を下ろしている。
浅黒い肌に黒い髪、冷たい色の眼に赤い眼帯。
この見目は――確か、護衛の。
「カーム殿……だったか」
ムハンナドの問いに、男はゆるい笑みを浮かべた。
「おー、そうだぜ。で――誰だっけか、アンタは」
「……同業の者だ」
のんびりとした返答に、ムハンナドは軽く眉根を寄せた。
その一方でスフラは目に見えて肩の力を抜いた。
「びっくりした……こんなところに人がいるなんて思わなかった」
スフラの呟きが聞こえたらしい。カームが楽しげに笑った。
「はは、そうかい? ……んなことよりどうだ、上がってこいよ。そんな位置から見つめられても妙な気がするぜ」
言われるままに階段を登り終えたところで、ムハンナドは改めて部屋の中を見渡した。
広さは端から端まで七アルシュ(約四メートル前後)といったところだろうか。さして広くもなく、そして概して殺風景な部屋だ。
調度らしい調度といえば、東西の壁面にひとつずつ掛けられた大きめのランプ、そして聖地たる大神殿の方角である北西の壁際に作り付けられた小さな棚――白布に包まれた聖典が置かれている――ぐらいのものである。
他にあるのは南北の壁にくり抜かれた玻璃のない窓と、小さな水たまりの中にうち捨てられた古い椅子、そしてそれらの上を通ってさらに高みへと続くらしい階段、それだけだった。
ここまで登ってきた階段は石造りだったが、今度のこれは金属製だ。螺旋を描いたその頂点は、暗い天井に消えている。
長いのか短いのかすらよく分からないが、おそらくこれを登り詰めれば、ムアッズィンの立つ露台に出られるのだろうと思われた。
スフラもまた階段に目を留めてから、ムハンナドの方を振り返ってきた。
「まだ先があるんだね。これを登ったらてっぺんに出られるのかな」
その言葉に答えたのはムハンナドではなく、カームの方だった。
「いや、さすがにそこまでは上がれねえことになってるぞ」
言って彼は階段の登り口を指し示す。見ればそこには鎖が張ってあって、除かねば先に行けないようになっていた。
「そっか、じゃあここまででお終いだね」
呟いたスフラの声はどことなく残念そうだった。
そのまま彼女は窓辺に寄り、外に一瞥を投げた。途端、その声色は一気に明るくなった。
「わあ、高い! ずいぶん登ったみたい!」
つま先立って軽く身を乗り出したスフラに、ムハンナドは慌てて声をかけた。
「スフラ、気をつけろ。雨がかからないか」
「大丈夫みたい。上に屋根があるよ。ムハンナドさんも来てみて」
言われるままに窓辺に寄ると、確かにすぐ上に庇のようなものがあり、室内に雨が吹き込むのをちょうど上手いこと防いでいるのだった。
そのさらに上からは、何か広いものが張り出しているのが見て取れた。
「ああ……あれが露台か」
「えっ、本当?」
「たぶんそうだろう」
へえ、とスフラは感じ入ったような声を上げた。
その背後から、カームののんびりとした声がした。
「ここは雨宿りにはちょうどいいぞ。静かだし、乾いてるしな」
「そうなの?」
振り返ったスフラは首を傾げて、カームの背後辺りを指さした。
「そこに水たまりできてるけど」
「ん?」
カームはのんびりと首をめぐらせ、壊れかけの椅子が浸った水たまりを認めて瞬いた。
「……お、本当だ」
「雨は入ってこないのに、変なの。何でかな?」
「雨漏りでもするんじゃねえかな」
いかにも思いついたままの答えである。スフラはますます首を傾げた。
「……でも、今雨漏りなんてしてないよね」
「時と場合によるのかもなあ」
そこまで言ってからカームは、やっと合点したかのように一人頷いた。
「そうか、アンタら降られちまったのか。災難だったなあ」
「うん、だから雨宿りしようと思って来たの」
「そういうことか。じゃあ、こっちに座ったらどうだ。ちょっとばかり狭いけどな」
「いいの? ありがとうございます」
カームの傍らに素直に腰を下ろしてから、スフラは立ったままのムハンナドの方を仰いだ。
「ムハンナドさんは?」
スフラの声にムハンナドはかぶりを振った。
「俺はここでいい」
「えっ? でも、そんなの悪いよ」
立ち上がりかけたスフラをカームが制した。
「まあ、いいじゃねえか」
「でも……」
「本人がそう言ってるんだ。好きにさせてやりな」
スフラはその後もしばらく目に申し訳なさそうな色を浮かべていた。
しかしムハンナドが壁にもたれるのを認めたのち、雰囲気を変えようとするように話し始めた。
「そういえば今朝も雨降ったよね。ちょっとだけだったけど、激しくってびっくりしちゃった」
「ああ。ちょうど俺が見回りに当たってた時だったなあ」
それを聞いたスフラが、えっ、と口許を押さえた。
「カームさん、あの雨の中でお仕事したの? 大丈夫、風邪引かなかった?」
「ははは、んなわけはねえ。休ませてもらったよ。だから今ここにいるわけさ」
「……カーム殿」
「おっと、怖い顔すんなよ」
ムハンナドの渋面をからかってから、カームはスフラに向かって笑んでみせた。
「お嬢ちゃん、俺よりこいつの心配してやれよ。こいつの方がびしょ濡れじゃねえか」
「……突然の大雨だったんだ、仕方あるまい」
「そりゃあな。――だが何でまた、お嬢ちゃんは濡れてねえんだ?」
「えーと……私はね、このお鍋かぶってきたの」
どことなく照れたように告白するスフラにカームが笑う。ムハンナドも思わず苦笑をこぼした。
そこに低く雨の打ち付ける音が響いて、ムハンナドの顔から笑みが引いた。
「――止まないな」
この雨が降り出してからどれほど経っているだろう。
余所の国ではどうだか知らないが、砂漠において激しい雨というのはすぐに止むものと定まっている。
極端に短いものなら雨に気付いて近くの屋根の下に駆け込む間に過ぎ去ってしまうし、長くても庇の下で三百を数える間には止むのが普通だ。
――それが、これは。
「……変だね」
スフラがどことなく心配そうに呟く。
まったく動じていないのはカームだけのようだった。
「こういうこともあるだろ。天気だの天災だのは、俺たちにはどうにもできねえもんだ。放っておくしかねえさ」
胡座をかいて煙管をくわえたまま、のんびりと言うカームの姿に、ムハンナドはさておきスフラの気持ちは持ち直したようだった。
「そうだよね。サイルには勝てぬ、っていう言葉もあるものね」
サイルとは雨季の涸川に突然流れ出る大水のこと、時に猛り狂って死者すら出す、砂漠の危険のひとつである。
「そうそう。待つのが一番だ」
その言葉に素直に頷き、時間つぶしにとスフラは全く違う話を始めた。隊商内のうわさ話だとか、ごく他愛ない内容だった。
腕を組んで壁によりかかったまま、ムハンナドはそれを聞くとはなしに聞いていた。
その最中、ふと雨の音が小さくなったのに気付いた。
窓辺に歩み寄って外を見やれば、雨は漸う霧雨程度に収まっていた。
それを確かめたムハンナドはスフラとカームの方を振り返った。
「――だいぶ弱まったぞ」
「本当?」
スフラが立ち上がって駆け寄ってきた。
窓の外に顔を突き出して、彼女は明るい声を上げた。
「あ、本当だね」
「このぐらいだったら宿まで行けそうだな。どうだ、スフラ」
「うん、行ってみるよ」
スフラの返事に頷いてから、ムハンナドはカームの方を見やった。
「カーム殿はいかがされる」
「俺はもうしばらくここにいさせてもらうわ。塔の上で昼寝ってのも乙なもんだ」
のんびりとしたカームの答えに、ムハンナドは溜め息をついた。
「……ならば、ご自由に」
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