天使のガラスは雨に輝き
「お早うございます!」
翌朝、中庭に現れたナーターンは、晴れやかな笑顔をしていた。
が、顔に酷いアザが出来ていた。
「盗人にでも間違えられでもしたか」
「いいえ! これはちょっと、ムハンナド先生に隙を突かれてしまって。地理の方はバッチリ分かりました!」
ナーターンはもったいぶった様子で笑うと、ぐいっと胸を張った。
「ずばり、『二度と這い上がれぬ谷底の下、象にふみつけられて、涸れ河に流され、ロック鳥の胃袋の中にいる、紅蓮炎のルフを潜り抜けた向こう』です」
沈黙、数秒。
「……何でぇその危険極まりねぇ場所は」
「採取人達は他人に横取りされないように、道順を、比喩で言い表す事があるのです。危険な場所だと客に意識付けられれば、その分希少価値も高められますし」
「と、リラさんに伺ったので、地理として聞いた情報と照らし合わせて、場所の予測を立てておきました」
その作業を徹夜でやっていたせいで、ムハンナドとの訓練で怪我をする羽目になってしまった訳だが、それはそれだ。護身の術も大事だが、将来の事だって大事なのである。
鍋ラクダシフトのお陰か、ワハルが手早くラクダの用意を整え、既に出立の準備は万端だ。しかし、中庭から仰ぐ空は綺麗に晴れ渡っている。ラクダに跨り、リラは日よけの布を巻いた。
「あまり日に焼けたくないもので……。申し訳ありません、疑う訳ではないのですが」
「ああ、構わねぇさ。っと、そうそう」
ワハルは筆を取り出すと、空中に魔法でなにやら文字を書いた。ナーターンの目の前で一度、リラの目の前でも同じように。浮かんだ文字はそのまま溶けるように消えてしまった。
「雨避けのまじないだ。じゃ、行くとするかい」
楽しげににやりと笑うと、ワハルは浮いて移動を始めた。二人も、それぞれにラクダを駆り、飛び行く書家の後に続いた。
そして、いくらか時が過ぎ。
「分かりました、こっちです」
明るいナーターンの声と共に、再び三人は進み始めた。
すぐにそれが正しい位置取りだったと分かる。次の目印が雨の向こうにうっすらと見えてきたからだ。巨大な、翼を広げた鳥の形の岩だ。さらに近づけば、目印に違いないと確信させる特徴が岩の中に現れてくる。
「なるほど。ロック鳥の胃袋ね」
岩は単なる岩ではなく、見上げるばかりの巨岩であった。そしてその下部にはぽかりと、大きな穴が開いていた。岩をロック鳥となぞらえるなら、丁度腹に見える場所だ。長さはない。覗き込めばすぐに向こうが見える程だ。
穴を潜るには、流石にラクダは降りなければならなかった。降りてしまえば幅が狭いぐらいで、直立して歩くのに支障はない。リラとナーターンは久々に砂を踏みしめ、薄暗い洞穴を歩いた。
「ここを抜ければ、あとは『紅蓮炎のルフ』を探すだけですね」
「うーん、でも、その最後の目印だけが、どうも当てはめにくかったんで不安なんです。もし間違えていたらすみません」
「大丈夫ですよ。今までちゃんと見つけてきたではありませんか」
ちなみに『二度と這い上がれぬ谷底』は大きな二つの砂丘の間、『象にふみつけられ』は足を上げた象に見える岩だった。その先の涸れ河は、雨で僅かに水が流れており、その流れに沿って今まで進んできた。
「ま、万一着かなきゃ、そん時ゃあ良い酒でも奢ってもらうかな」
「ええーっ……って、あれ」
恐らく、そのとき皆、ほぼ同時に気がついたのだ。
もう出口に近いというのに、自分の影が前方に伸びている事に。
そして、背後になぜか熱源があることにも。
「走れ!」
ワハルが叫んだ。緊迫をはらんだ声に、二人はとりもなおさず走り出す。ラクダが恐怖にいなないて、炎の盛る音が聞こえた。
しばらくそうして逃げてから、やっと何が起こったか把握しようと言う考えが頭に浮かぶ。駆けながら、どちらともなく振り向けば、ワハルが巨大な炎の柱と対峙しているではないか。赤い炎の中には目と思しき青い光が二つ。普通の炎でない事は、すぐに分かった。
「はん! 雨の日にこのワハル様に楯突こうたぁ、良い度胸だ!」
ワハルの魔法が放たれる。炎とぶつかり、水蒸気が洞穴を満たす。二人は水蒸気と共に、出口を潜り抜けた。
「ま、まさか、あれが、『紅蓮炎のルフ』……?」
「やっぱり……『炎に見える木の茂り』ではなかったんですね……」
荒い息を整えつつ、二人はもう一度洞穴を振り返る。水蒸気で何も見えないが、まだ戦っているらしい音は聞こえる。
「でも……、あれが目印だったとして……この洞穴にルフが棲んでいると知っているなら、どうしてわざわざ危険なルートを……」
「そりゃあ、横取りされないようにだよ」
それは、彼らのすぐ傍で聞こえた。よく知った声ではなかった。しかし、どこかで聞いた事のある声だ。
二人は声のほうを見て、あ、と思わず声を上げた。
ロック鳥の岩から突き出た出っ張りで雨宿りをしている男、隊商宿で会った、『天使のなきがら』の仲介商人だ。
「あんたに教えた道順は、横取りを目論む奴らに教える、特別な道さ」
「……あのルフもお前ェの持ちもんか。自分が危ういとなったら、古いランプの中に逃げていったぜ」
まだ立ち込める水蒸気の中から、ワハルが顔を出す。その通り、と商人は応じる。知り合いの召喚士に封じてもらったものだ、と付け加えた。
よそ者が場所を知りたがった場合、この道順を教えるのが、『天使のなきがら』の採取人達の取り決めであった。すると大体がルフに驚いて逃げるか、万一潜り抜けても既に仲買商人がいることで引き下がるかするらしい。商人自身は、いたって安全で近い道を通って、ここまでやってきたのだ。
もっと言えば、彼は仲買商人ではなく採掘人その人で、仲買を称する事で仲介料も取ってしまおうと言う算段であった。この事は男は口にしなかったが、勘付いた者は勘付いただろう。
「それじゃあ、私達はまんまとしてやられてしまったんですね」
ナーターンが肩を落とす。リラはリラで、前日よぎった嫌な予感を思い出していた。
「こいつ……裏切らねぇ奴だな」
「え、なにか言いました?」
「いいえ、何にも?」
思わず素で呟いてしまったリラは、倍の微笑みをナーターンに向けた。雨の中を出かけてまでやって来た事が無駄になったとわかって、半ばヤケな気分になったのを隠すためでもあった。
だから、雨を眺めていた商人がぽつりと呟いた事には耳を疑った。
「でもまあ……いいよ。あんた達なら取っていっても」
「……よろしいんですか?」
商人はやはり雨を眺めながら、遠い目をしてふっと笑った。
「いやあな。道のことを聞いてくる、そこの坊主の目が、いやに真っ直ぐだったからな。……坊主、彼女へのプレゼントか何かか?」
「えっ!? あ、いや」
「いいんだいいんだ。俺だってそんな年頃の事があったからな。それを思い出したら、どうも坊主を他人と思えなくなっちまってな」
どうも、とんだ妄想癖を持つ男らしい。ワハルやリラにも好きにして良い、と言う。ちょっとセンチメンタルを帯びた、良い笑顔で。リラは今度は苦笑いを浮かべる羽目になった。
「ええ……では、遠慮なく」
「うーん、喜んで良いのか悲しんで良いのか」
隣でナーターンも似たような顔をしている。
「まぁまぁ、結果が良けりゃいいじゃねぇか。そら、もうじき雨が上がるぜ」
ワハルが、雨は細く、雲は薄くなり始めていた。
さほど待たないうちに雲は切れ、雨粒のかわりに太陽の光が降り始める。
雨上がりの、空気の潤う、爽やかにも感じる空気の中で、地表に目を向ける。
『天使のなきがら』は、地表に落ちた星のように、美しく輝いた。
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