依頼
<父と子と>



 「さー、今日もがんばっていきましょうっ!」
 朝の光が眩しく差しこむ神殿跡に胸を張って立ち、拳を握って叫んだ途端に口元を押さえて咳き込んだ少女の背を慌てて少年が支える。大丈夫ですすみません、えへへーと照れ笑いする口の端に血が滲んだ。朝から元気(流石に健康とは言わないが)だなあ、とすっかり慣れた護衛が頷く隣で男が欠伸をかみ殺す。
「ところで、何故わたしまで?」
「乗りかかった船というやつだ、いいじゃないかヒマなんだろう?」
 快活な答えに、マリアールに朝一番で無理矢理に天幕から引っ張り出されたバッサームは軽く肩を揺らした。いつもならまだ寝ている時間なのだろう、何時にも増して不審者めいたなりである。お力になれるとは思えませんがという呪術師の呟きにマリアールの朗らかな反駁が跳ね返った。
「まだまだわかりませんよっ。当たるも八卦当たらぬも八卦っていうじゃないですか!」
「本人前にしてよく言うな」
「まあそのとおりなんですが」
「……本人がよく言うな」
 呆れたソティスの呟きを聞いているのか居ないのか、マリアールはうきうきと歌うように透き通った声を張り上げた。
「アクラムさんはお母さんを探したい! 私はできるだけ多く楽譜を集めたい! ソティスさんとバッサームさんはお手伝いしてくれる! そうですよねっ」
 きらきらきら。
 いつのまにそうなったのか――という疑問はもはやこの瞳の前には無意味である。並んで無垢な眼で見上げてくる子供二人にソティスは笑って頷いた。その隣で同じく苦笑したらしいバッサームが手にしたタイルの欠片を陽に掲げる。
「手伝うといいましても――“これ”の元あった場所はもうご存知なのでしょう?」
「そうなんです! それで、まずそこへ行ってみようと」
 捜査の基本は現場百篇ですものね! その歌もゲットしたいですし!
 マリアールは「ねっ!」とアクラムを振り返った。その勢いにびくりとしたものの、少年はこくりと頷いた。
 しかし呪術師から返されたタイルを握り締め、意を決したように神殿跡の奥へと続く道へ踏み出そうとしたアクラムの足はそこで突然止まってしまった。
 マリアールが不思議に思って彼の視線の先をみると、アクラムの行く手を遮るように此方を向いた人影が立っている。どこかで見覚えのある顔に、マリアールは思わず指を指して叫んだ。相手もこちらに気づいたようで、厳しく顰められていた顔が一瞬驚きに緩む。
「あれ、きのうご飯やさんで」
「父さん!」
「へっ?」
 それは確かに、昨日ソティスに担ぎ込まれた店で話をした丸眼鏡の男だった。ソティスも驚いた顔をして男と少年を見比べる。二人はいまや数歩の距離を隔ててにらみ合っている。
「お…お父さん? 息子? ええ?」
 どうしよう、もしかしたら修羅場です。マリアールは焦るが、焦ったところで何が出来るわけでもない。手に汗を握って父と子の対峙を見守るのみだ。混乱する二人を余所に、すぐに動揺をおさめた男は厳しい声で少年に語りかけた。
「アクラム。それを返しなさい」
 固い表情で少年がびくりと身を退く。それを見て、男は僅かに頬の辺りを震わせた。ゆっくりと少年に歩み寄り、彼のこわばりが伝染ったように硬い声で静かに続ける。アクラム。
「母さんは」
 母さんは、もう帰ってこないんだよ。
 その言葉に力なく落ちた少年の手から、タイルは簡単に奪われた。丸眼鏡の奥で酷く哀しい顔をして、男はソティスたちに一礼すると、黙ってその場を立ち去って行った。
 その父親の背が礼拝堂の向うに見えなくなっても、アクラムは一言も発しなかった。
 気まずい。物凄く気まずい。
 重い雰囲気を何とかしたいとソティスは焦るが、結局どうすることもできずに救いを求めてマリアールを見た。だがいつも明るいマリアールも今は白い顔でただその場に俯いて立っている。細い手が握り締められているのが見えて、なぜかソティスの心は痛んだ。
 結果、その沈黙を破ったのはそれまでただ立っていただけの男の一声だった。
「さて、そろそろ行きましょうか」
 今までの流れを完全に無視した物言いに、虚を突かれたように顔を上げた少年と少女が目を瞬かせる。それに呪術師は首を傾げる。
「行くんでしょう?」
「でも、タイルは持ってかれちゃって……」
 珍しく気弱な声で語尾を小さくするマリアールの目の前で、男は手に持っていたものをひらひらと振って見せた。

「……っあああー?」
 男の右手が閃かせるのは、半ば乾きかけた白い布――その表面につい先刻まで実物を目にしていたあの譜面が、タイルの形に浮かび上がっている。懐手にした左手が例の酒杯を愛でるように撫でていた。
 少年と少女の表情が俄に輝く。
 いつのまに、と呆れて唸る護衛に、乗りかかった船というやつですよ、と呪術師はゆるく笑った。

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