奇怪の塔




 今度はスフラを後に続かせて、長い階段を降りた。
 一番下に着いて扉を開けようとした時、後ろから来たスフラに制された。
「待って!」
「……どうした?」
「扉。さっき開けてもらったから、今度は私が開けるよ」
 無邪気に申し出られて、ムハンナドは思わず微笑んだ。
「大丈夫か? 重いぞ」
「やってみる。お鍋持っててね」
 問答無用で鍋を持たされたムハンナドの視線の先で、スフラは扉の取っ手を握り、強く手前に引いた。
 だがこの扉は外開きだ。勿論引いても開くわけがなかった。
「……あれ?」
 首を傾げる姿にムハンナドは苦笑した。
「逆だ。押してみろ」
「えっ……あ、逆? そっか、分かった」
 今度こそ、とスフラは扉に手をかけ直す。そして体全体で思いきり押した。

 だがそれでも、扉は微動だにしなかった。
 
「あれ……?」
「駄目か」
 スフラは取っ手をがたがたと動かし、先ほどよりさらに首を傾げた。
「何だか変なの。吸い付いたみたいに動かない」
「貸してみろ」
 ムハンナドはスフラに鍋を返し、扉に手をかけた。
 水が多少滲みているのかもしれない。先ほどよりも湿り気の増した感触がした。
「大丈夫? 動くかな」
「大丈夫だと思う。待ってろ」
 答えてムハンナドは扉を押した。
 
 低く軋む音がする。だが扉は動かない。
 手だけでは駄目なようだと思って、片方の肩を当てて押す。
 それでも動かない。全体重をかけて押す。足元が軽く滑った。何かよく分からない、強い抵抗が、扉の向こうにあった。
 肩口が痺れてきたところで、ムハンナドは漸く身を起こした。

 ――扉は、開かなかった。


 背後から心配そうなスフラの声がした。
「ねえ、やっぱり開かない?」
 それには答えず、ムハンナドは一歩退いて扉を見つめた。

 水を吸ったせいで扉がつかえているのだろうか。
 それだと非常に厄介だ。完全に乾くまで待つか、最悪、蹴倒して開けることになるかもしれない。
  
 鍋を床に置いたスフラが、傍に歩み寄ってきた。
「二人で押したら開くかな」
「……やってみるか」
 この非力そうな少女が加わったところで何か変わるとはあまり思えなかったが、彼女の厚意を無下にしたくはなかった。

 ムハンナドは扉の中程にスフラを立たせ、自分は外側に近い方に位置を取った。
「床が滑る。転ばないように気をつけろ」
 うん、と大きく頷いたスフラは、先ほどムハンナドがしたように右の肩を扉に付けた。
「じゃあ、いくよ。……せー、のっ」
 スフラの声に合わせて思いきり扉を押した。  少しは違いがあったようで、扉はじりじりと動き出した。
「ひ……開いてる?」
 スフラの声が聞こえた。それに答えようとした時、全く違うものがムハンナドの注意を引いた。

 扉と壁の隙間に何かが見える。
 透き通った何か。濡れて滴る――これは水。

 それが扉の向こうから、こちらに染みている。
 雨水が滴り入ってきているわけではない。それとは様子が違う。
 例えていうなら、水を張った碗に浮かべた板を押したときのような。板に押された水が浮き上がって、乾いた面までひたしていく時のような。

(……何だ)

 薄ら寒いものが背を走った、――その刹那。
 突如背後から悲鳴が上がった。振り返ると信じられないものが目に入った。


 水だ。扉の隙間から染み入った水だ。それがスフラの足元にまとわりついている。

 ――いや、水ではない。

 生きているかのようにスフラの足を這い上がってくる、これは。


「スフラ!!」
 咄嗟にスフラを抱き上げて床から引き離した。
 水は少女の足から離れたが、なおも捕らえんとするかのように何度か波打った。
 次いでそれはムハンナドの足元に絡みついてきた。それを払いのけ、スフラを抱いたまま階段を駆け上がった。


 その途端に次が起きた。

 空気に突如、むせるほどの湿気が充満する。背後が暗くなった。
 肩にしがみつくスフラが息を呑んだ。
「――ランプが」
 振り向かなくても分かった。水気が灯りを揉み消したのだ。

 通り過ぎるごとに次、また次。追うように灯りが絶えていく。

 しかしムハンナドの足はそれを振り切ったようだった。
 先ほどの小部屋に着いた時には、彼らを囲む空気は元と同じに乾いていた。



 肩で息をしながら、ムハンナドはスフラを床に下ろした。
 カームは先ほどと変わらぬ場所で煙管を咥えたままだった。片目の視線が心なしか愉快そうに二人の顔を薙いだ。
「おいおい、何の騒ぎだ、こりゃ」 「下が……変なの」
 息を整えるムハンナドの代わりに、スフラがおろおろと事態を説明した。
 カームはそれをふんふんと頷きながら聞き、至極楽しそうに笑んだ。
「面白い雨水もあるもんだなあ」
「どうしよう、カームさん。このままじゃ外に出られないよ」
「いいじゃねえか、止むまで待てば。アンタら二人も無事に逃げ出して来られたんだろう?」
「そうだけど……」
 しかしスフラはそれきり、言葉を継ぐことはできなかった。
「こういうことに行き逢った経験はおありか? 何か打つ手はないか」
 ムハンナドが問うても、カームは笑みを浮かべたまま何も答えなかった。

 静まりかえった小部屋に、雨の音だけがしとしとと響く。
 困惑を隠しきれない表情のムハンナドとスフラを余所に、カームは悠然と煙管を吹いた。
 途端、カームの煙管から煙が飛び出した。
 ――いや、煙ではない。その証拠に消えもせず広がりもせず、飛び出たままの姿で辺りをぷかぷかと漂っている。

「……何だ、これは」
 眉をひそめたムハンナドに、カームはのんびりとした笑みを向けてきた。
「ん? ああこいつか、ルフだよ」
「ルフだ?」
「おう。俺の煙管に憑いてるやつさ。危害は加えねえから、安心していいぞ」
「……そういうことを気にしているわけじゃない」
 ますます渋面を濃くしたムハンナドを見てカームは再度笑った。
(全く……)
 ムハンナドは顔を背けて窓の方に歩を進め、何とはなしに外を見やった。


 ――そして、瞠目した。


 見下ろしたところにあるのはこの塔の扉、その扉に何かがまとわりついている。
 言うなら水の塊のようなもの、生き物のようにうごめいて、青く透けるどろどろとしたもの。

 目を疑うその間に、その塊は完全に扉に染みこんで姿を消した。

 ムハンナドは振り返った。
 途端、見て取った。


 すぐそこの階段下まで、その水が滲みてきているのを。



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