奇怪の塔
「スフラ! カーム殿!!」
ムハンナドが声をあげるのとほぼ同時、水が沸き立って飛んだ。
その先にあったのは凍り付いたスフラの姿、しかし彼女に届く前に水の塊は叩き落とされた。
「――参ったなあ」
濡れた左腕を振るいながらカームが苦笑した。
「せっかく雨宿りしてたってのに、俺までびしょ濡れじゃねえか」
ムハンナドはしゃがみこんだままのスフラに駆け寄り、腕を引いて立たせた。
「大丈夫か」
「た、たぶん……」
そこにカームの声がかかった。
「お嬢ちゃんの居場所は階段の上だ」
泰然とした笑顔がこちらに向けられる。それに頷いてムハンナドはスフラの背を押した。スフラはされるまま駆け出して階段の鎖を乗り越え、何段か上に登ったところでこちらを振り向いた。
「よし、それでいい」
カームが頷いた。ムハンナドは棍棒を構えてその隣に並んだ。
水の塊は今、ずるずると後を引きながら、三人のいる辺りを取り囲むかのように部屋中に広がっていた。
「――カーム殿、魔物と戦った経験は」
「あるけど、さして好きでもねえな、こういう相手は。お前はどうなんだ?」
「専門は人相手だ、残念ながら」
「なるほどなあ。……ややっこしいのってのは、こういう時に限って来ちまうんだよなあ」
苦笑してから、カームは軽く腰を落とした。
「まあ、相手してやるしかねえだろ。どっかに弱点はあるはずだ」
水の塊が波打って飛びかかってきた。それをムハンナドは棍で叩き落とした。
床にぶつかった魔物は向きを変えてカームの足元を掬おうとする。しかしあっさりと払いのけられた。
すれば水の表面が盛り上がって伸び、鎌首をもたげて護衛二人に襲いかかってきた。
飛び退いた二人の間で水の塊が砕け散った。それはまたすぐに形を成し、今度は片側から鞭のようにしなってぶつかってきた。
その鞭はカームの左腕ですぐさま叩き斬られた。スフラの方まで飛んだ水の塊はムハンナドの棍が弾き飛ばした。
きりがなかった。
危惧していたことだった。
この魔物にこういう物理的攻撃は効かないのだ。
何せ実体があるようでない。形を崩しても、すぐに違う様態になって再度襲いかかってくる。
どこかに核のようなものがあるはずだと隙を見て棍を突き通すが返り討ちに遭うばかり、カームの武器である小刀もこれ相手には役に立たない。
この調子であとどれだけ保つだろうか。
こちらの体力には限界がある。しかしこの魔物にそういう限りがあるのかどうか。
いずれ防ぎきれなくなる。
何か違う手を打たなければ。
――だが、どうやって。
焦りが心中をかすめた。
その時、だった。
「カームさん、ムハンナドさん、伏せて!」
高い声が飛んだ。
身をかがめるや何かが頭上をかすめ、水の塊のただ中に落ちた。
途端、凄まじい勢いで蒸気が上がった。
魔物は金属が軋むような音を立ててその身を縮め、階段下まで退いた。目の前の乾いた床には、火の消えたランプが転がっていた。
ムハンナドは驚いてスフラを振り仰いだ。
彼女自身も自分のしたことに少なからず驚いた様子で、階段の手すりから身を乗り出したまま、荒い息をついていた。
ランプとスフラを見比べたカームが大きく頷いて笑んだ。
「お嬢ちゃん、大手柄だ」
「――火だな」
ムハンナドの呟きに、カームが楽しげに応えた。
「だいぶ痛手を受けたみたいじゃねえか。今のうちだ」
何をすべきか相談せずとも、護衛同士の意志は一致していた。
ムハンナドは壁際にうち捨てられた椅子を手に取った。
その脚を二本折り取り――椅子が逆さまの状態で水に浸っていたのが幸いし、湿っていなかった――、次いで逆側の壁にかけられたもうひとつのランプを取り外した。
そこにカームが何かを差し出した。見ればそれは棚の聖典を包んでいた布だった。
さすがに躊躇したムハンナドに、カームは片眉を上げてみせた。
「この際構わねえだろ、何だろうと」
「……分かった」
心中不遜を女神に詫びてから、ムハンナドはその布を二つに裂いてランプの油に浸した。
頭上からスフラの声がした。
「来てる! 来てるよ! 急いで!」
見れば確かに、退いたはずの魔物がまたじわじわと床を伝って、こちらに迫ってきているのだった。
本当はもう少し油を滲みさせた方がいいのかもしれない、だが今はこれが限界だ。ムハンナドは布を油の中から引き出し、それぞれを椅子の脚に巻き付けた。
先にできた一本をカームに渡すと、彼は布の巻いてある側をランプの炎にあてがった。
勢いよく燃え上がったそれを見て、カームは笑んだ。
「急ごしらえにしちゃ、上等の松明じゃねえか」
なあ、と彼は、その松明を魔物に見せつけるようにする。
心なしか魔物が後じさったようにも見えた。
ムハンナドの松明にも火がついた。
今度こそ魔物は目に見えて後退した。
カームの方を一瞥すると、先に行け、というような視線が返ってきた。
それを受けてムハンナドは前に進み出、松明の火を魔物に向かって振るった。
水の塊は退くも退ききれず、赤い火の粉をもろに浴びた。水の気化する音が大きく響いた。
魔物は身をよじらせて階段から飛び出した。しかし先ほどのようにこちらに襲いかかってくるのではなく、身丈を明らかに縮めて壁際を這いずっている。怯えているのに間違いなかった。
「よーし、いいじゃねえか」
楽しげな言葉とともに、今度はカームが松明を振るった。
白い蒸気が上がり、魔物の姿がまた一回り小さくなった。
その逆側からムハンナドがもう一度火の粉をぶつける。魔物は激しく震えてまたも身を縮めた。 一時は部屋中を蔽っていた水の塊の大きさは、今はもはや子羊程度でしかなかった。
「そろそろ終い、かな」
その言葉と同時、カームが塊の中心に松明を突き立てた。
激しい音を立てて炎が消え、それと同時に蒸気が噴き上がった。
いくらもしないうちにその白い霧は晴れた。後に残ったのは拳程度の大きさの水球がひとつ、ただそれだけだった。
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